高階碧さまより 1

 
 

上海物語(仮)1




 それでは、と若林は鷹揚に長い足を組んだ。目の前に佇む相手は絢爛な絹のチャイナを纏い、艶やかな化粧を施している。到底青年の様相とは見て取れない。若林は内心感嘆の息を吐き、両手の指を組んだ。
「それでは、早速仕事を始めるとするか。岬太郎少尉?そんな形はしておられるが、間違いはないな」
 岬、と名を呼ばれた麗しい立ち姿の彼は、先程までの花のような微笑を抑え、唇を引き締めた。
「若林大尉殿。間違いありません。僕は、貴方にここでの仕事をし易いように、その助力を差し上げるよう上から申し渡された。これが僕の務めです。では、早速、話に取り掛からせて頂きます」
「掛けたらどうだ」
「いえ、このままで結構」
 大きく切れ上がったスリットから覗く白い足を物ともせずに、岬はテーブルから某かを取り上げた。甘い、矢鱈に鼻に付く香の焚き染められた部屋だと若林は思った。片隅のサイドランプの傘には艶かしい牡丹の意匠が施されており、寝台には見目鮮やかな絹の掛け物が敷き詰められている。
 このようなところで機密事項を扱うことになろうとは。
 人の世の常とは知りながら、若林は密かに苦笑した。岬は振り返り、数枚の資料と写真を、手渡してきた。
「それが今回、貴方が向き合わねばならない相手の顔です。名前は松山光。この店でも最上に振り分けられる娼人です。彼に近付けば自ずと必要な情報は収集できる」
「松山光。噂には聞いていたが、あの、上海一の商家、松山家の生き残りか。正統な後継者だと話に聞いているが」
 岬は細い顎を突き上げた。
「その通り。この共同租界でも名の知られた一、二を争う大商店の嫡男ですよ。海難事故で命を落としたと思われていたところ、運良く、一命を取り留めたらしい。ここは日本軍の息が掛かった娼館だ。どこぞの権益に群がる輩に命を狙われるくらいなら、ここで、その身柄を保護しようということになったようです。表向きは売れっ子の男娼。ですが、上層部の狙いは、それだけではないでしょう」
「なるほど。未だ処理しきれていない松山家の資産やその権益。日本軍にとっては喉から手が出るほど魅力的な代物だ」
「仰る通り。今、関東軍は満州進出への契機を狙っている。松山家が保持していた情報網に人脈、資金力。どれも手放すわけには行かない。列強諸国も、目を鷹のようにして狙っているわけですから」
「一石二鳥と言うわけか。手放したくない化粧料を背負った“松山家の御曹司”と、その容姿で列強のお歴々を骨抜きにする売れっ子の男娼。俺は、彼の見張りと、彼が引き出した情報を確保する、それが、今回俺に与えられた務めと思えば良いんだな」
 若林は豪奢な肘掛に頬杖をつき、資料を見下ろした。白黒の写真にチャイナで写るその姿は、到底そのような重大な運命を背負った形には見て取れない。まだ幼いとも見受けられる、無邪気な、そんな清廉な表情にも見えた。
 先程、廊下でちらと擦れ違いもしただろうか。その横にはいかにも矍鑠とした、どこぞの軍人らしい姿があった。国民政府のお偉方かと若林は瞬時認めた。
 昭和X年、日本は広大な中国大陸の拠点を求め、張学良率いる満州軍閥との協調を求めていた。先に生じた“満州某重大事件”と後に呼ばれるようになる関東軍の行き過ぎた謀略は時の天皇の叱責を買い、時の首相を辞任に追い込む騒ぎにすら成り果てて終わった。
 満州全域の権益が欲しい日本陸軍、かといって、血気に逸った策謀は慎まねばならぬ。
 若林はどちらかと言えば、穏健派に属していた。血の気の多い関東軍の将校の内にあり、若くしてそれなりの地位に上った男には違いなかったが、かといって血腥い殺略に興味があるわけではない。
「了解した。彼の身柄を保護し、情報を収集することでお国のためになるのなら、精一杯俺は務め上げさせて頂こう」
 若林自身愛する美しい祖国のため。それ以外に理由などない。
 麗しい同僚の面差しを見上げ、若林は初めて笑みを綻ばせた。
「中々骨の折れそうな仕事だ。松山光といえば、誰の手にも落ちない高嶺の花。その花を落とせと言うのだからな」
「落とせとまでは言いません。貴方は松山から必要な情報のみ引き出し、上に伝えて下されば良い。無理はしないことです」
 岬は艶然と微笑んだ。一瞬、息を止めさせられるような、そんな種類だと若林は思った。
「松山は誰の手にも落ちない。そういう人間です。落とせるものならそうして御覧なさい、と言いたいところではありますが、まあ、無理でしょうね」
「随分な言われ様だな」
「高額なお金を賭けて、誰が松山を落とすかなど、馬鹿馬鹿しい遊戯に担ぎ上げられるくらいのタマですよ。早々には。どんな権力の持ち主も、財産の持ち主も、清の皇帝にだって、彼は靡かない。おかげで、“紅雪”。彼についたあだ名がそれです」
 紅雪、と若林は問い返した。岬は資料を大切に袋に収めなおし、若林に手渡した。
「桃の花の異名ですよ。中国では桃とは特別な意味を持ちます。桃源郷に咲く花。つまりは誰の手にも触れられない」
 肩を竦めて紡ぐ岬に、なるほど、と若林は眦を下げた。
「面白いじゃないか」
「ゲエムに熱中する余り、職務を忘れるのは感心しませんね」
「だったら、そちらが手助けしてくれれば良いんじゃないか?俺などが彼から情報を聞き出すより、余程その美貌で男たちをたらしこんだほうが早い。・・・違うか?」
 岬は眉宇一つ動かさずに見返してくる。
「それは貴方の怠慢でしょう。僕は自分自身の任務で精一杯。これ以上身体を酷使したらとても持たない。楽じゃないんですよ、これでも」


 岬は悠然と笑った。話はこれで終わりだと、彼は腕を組んで見下ろしてきた。なるほど、店で目にしたのとはまるで別人の、軍人たるその素顔には違いなかった。彼もまた国のために命を捧げる一人なのだ。若林とは異なる形であれ。岬は諜報活動を専らとする、若林とは異なる部署の将校だった。
 主に欧州の列強諸国の内偵に勤めていると聞かされていた。若林は見つめ返した。なるほど、男好きのしそうな容姿だと、その端整な面差しで。
「これ以上、まだ何か?」
「いや、話はこれで終わりだ。了承した。そちらから、上層部には伝えてくれれば良い。俺が聞きたいことは何もない」
「それでは」
 岬は腰を据えていた年季の入った卓から身を起こし、部屋の灯りを落とそうとする。待て、一言言い捨てた若林に、彼は不思議そうに振り返ってきた。岬の美麗な面差しが疑念に顰められていた。
「肝心なことが残っているだろう」
「肝心なこと?」
「服を脱いで、寝台に上がれ。・・・忘れたのか?俺はおまえの客で、これからおまえに入れ揚げるという話になっているんだぞ?何の素振りも見せないでどうする」
 詰襟の胸元の留め具を緩めると、岬は目を見張って見据えてきた。
「・・・随分と、念の入ったお芝居だね・・・」
 若林は肩をそびやかして笑う。顎で煌びやかな褥を指し示すと、腰に携えたピストルと懐剣とを卓に放り投げた。
「けろりとした顔でおまえが部屋を出たとあってはどう考えても不信がられるだろう。悪く思うなよ。恨むならおまえの上役を恨め。それもこれも、任務のためだ」
 岬は、結局目を閉じて一つ息を吐いた。仕方がない、そうとも口にはせず艶やかな衣装を滑り落とす。朱子の滑らかさにも見目劣らぬ白い肌が妖艶な灯りの中、うっすらと若林の目の前に浮かび上がった。
「これも務めの内、というわけか。良いでしょう」
 若林はその肩を引き寄せた。岬はさしたる抵抗も見せず、その腕に納まってくる。
 艶かしい空気が、互いに繋いだ唇から漏れる。それでも、張り詰めた緊張が説き解れることはない。若林は抱いた。岬は思うままに乱れた。それもこれも、彼には慣れた一連の務めで、岬は何でもないことだとうそぶいた。
 実際に、彼の白い表情には、事を終えた後も一切の余韻すら見出せず、若林は淡く苦笑したのだった。







「一々付き合って気を失ってたりしたら身体がもたない。あくまで振りとして寝台に上るよう、僕たちは訓練されている」
 乱れた髪をそれでも鏡台の前で整えながら岬は言い放った。若林は煙草を吹かしていた。寝台から、投げた視線のその先にいる彼は店で目にした面差しとはやはり別人だった。化粧を施しながら、彼は事も無げに言って退ける。
「男というのは弱い生き物で、褥に入れば、どんな踏ん反り返ったお偉方も丸裸になるのですよ。簡単にね、色んな事を喋ってくれる。それこそ、面白いくらいに」
「・・・諜報活動の基本と言うわけか。どこの列強も、娼館に密偵の一人は送り込んでいるとは話に聞くな」
「貴方が言うように、情報収集には一番手っ取り早いからでしょう。だから」
 岬は紅を入れた唇で笑った。若林はじっと見つめた。
「だから、何も貴方が自信を失うことはない。僕がそう、訓練されているだけ。熱くならないようにね。熱くなった振りをするだけ。本気で付き合っていたのでは仕事になりませんから」
「ご同情痛み入る、とでも言えば良いのか?」
 寝台から身を起こし、若林は髪を掻いた。纏わり吐くような甘い香気が立ち込めているにも関わらず、どこか冷え冷えとした空気が肌から消えない。それは自分たちの間に漲る気のせいかと若林は苦笑った。岬の艶やかな微笑に、一層の美しさが増すのを目の当りにする。
「僕たちの仕事は、何もベッドで秘密を聞き出すだけじゃない。その気になれば」
 若林は目を見張って、凝視した。
「丸腰の男というのは哀れなもの。容易に寝首をかける」
「ご忠告、感謝する」
 若林は上着を羽織った。岬は鏡台から振り返り見据えてくる。その顔色には、先までの微笑は一切浮かんではいなかった。煌々と、華美な色彩の電灯が室内を、彼の白い表情を、影を落として染めていた。若林は見据え返した。衣服を、着々と身に着けながら。
 不用意に、彼の前で懐を晒すのは危険な気がした、のやもしれぬ。
「件の、松山光のこと」
「・・・話は、終わったんじゃなかったのか?」
 岬は瞬き一つせず、言い切ったのだった。
「貴方は職務以上の事をする必要はない。彼を傷つけるような真似だけは許さない。最後にそれだけ」
 若林の黒い瞳が、薄明かりの中大きく見開かれた。岬は豪奢なチャイナの上に絹の、上等のストールを纏わりつけた。
「いつでも俺の寝首をかける、ということか・・・」
 天人のような笑みを湛え、岬は柔らかな髪を撫で付けていた。白い指先で。その指は、つい先刻まで悩ましく若林の肩に回っていたと言うのに。
「貴方が満更の馬鹿ではないようで、安心した」
 それでは、行きましょうか。
 襟の詰まった軍服を若林の肩にかけ、その腕を腰に絡みつかせてくる。そう、まるで熱い時を過ごした情人同士のように。若林は笑ったのだった。
「良いだろう。しばらく俺たちは恋人同士だ」
「協定成立、というわけですね。こちらこそ宜しく」
 底の見えない繊細な彼の微笑の影に、紛れもない鋭い針のような光を、若林は見て取ったのかもしれなかった。仕事を組む相手としては申し分ないと、不要に長い廊下を微笑みで歩きながら、認めていた。
 そんな自分たちをどう見て取ったのか、周囲の人間の眼差しなど、知る由もない。
 ただ姦しい音楽と、匂えやかな空気のみが、上等の建物の中に流れていた。







もうもうもうもうもうもう!!皆さん読んでいただけましたか????
 なんて素晴らしい設定!!!
 まゆのへっぽこあらすじから、こんなにしっかりしたお話ができるんですよ〜〜〜〜〜〜!!超吃驚。碧様サスガ過ぎです。
 すっかり私なぞ、うわぁ続きどうなるんだろう!!!と一読者になってしまってます。
 岬少尉と若林大尉の関係がめちゃくちゃかっこいい・・・。
 ああもう碧様!!!本当に有難うございます〜〜〜〜〜〜〜!!
 頼んで良かった!!!偉いぞまゆ!!!自分を誉めちゃう(笑)。
 続き・・・・うふふふ・・・・・楽しみです〜〜〜〜〜。
 (01.11.13)