高階碧さまより 2

 
 

上海物語2

 煌びやかに着飾らされた同僚たちの面差しは一様に無表情で、さながら松山には生きた人形のように認められた。いつかは自身もあのような。
「月見酒の味が変わらない内に」
 眼前で交わされる遣り取りにも、松山は何の感慨も覚えなかった。
 松山が探し求めていた相手は祖国の軍服の腕に抱かれ、そしてその人自身抱きしめ返している。
「移ろい易い月になんて準えないで」
「・・・また来る」
 そう友人に微笑んだ客の視線が、一瞬自分に向いたと思ったのは錯覚かと松山は息を飲んだ。
「・・・岬」
 客の背を見送った友人は間もなく振り返ってきた。
「御免ね。待たせた?」
「いや。・・・岬も、仕事だから」
 支那風と欧風を上手く融合させたかの風情で造られた店の入り口では、馴染みの客と別れを惜しむ同僚たちが見つけられた。けれどもそこに真はない。皆、一様に失望したような眼差しで、何かを諦めた眼差しで空を眺めている。客の肩の向こうに。
 その中であって唯一瞳の光を失わないこの友人が、松山はとても好きだった。
 仏租界から故あって店換えしてきたという美しい青年。青年と呼ぶには、彼はあまりにも婀娜めいていたのだけれど。
「行こうか。美味しい月餅があるんだよ?」
 岬は耳に軽くかかった髪を掻き上げ松山を促す。
 夜はこんな季節にあって、ようやく白々と帳を上げようとしている。店の終わる時間帯であった。唯一自身達が自由になれる時間。それはあくまで鳥篭の中で飼われた鳥の自由に過ぎなかったのかもしれないが。松山は長い廊下を馴染みの背を追いながら歩いた。
「ちょっと待ってて。着替えるから」
 岬は簡潔に松山に言い放ち、同時に寛ぐよう勧めてくれる。彼の部屋、こじんまりと片付いた岬の個室はあくまで殺風景で、調度らしい調度は松山の目には認められない。
 普段の派手やかな装いが夢のように。
 絢爛なチャイナを脱ぎ捨てる彼の肌には今し方付けられたのだろう赤い花が散っている。松山は思わず目を背けた。首筋から項にかけて、華やかに。岬は何でもないことのように髪を掻き上げていたけれども。
 何時かは自分も。
 そのようにして身を立てていく。
 そうしていない“今”こそがいっそ不思議なもの。
 何処かで松山にもわかっていたのかもしれなかった。
 何処かで現実味を伴わない思念でもあった。まさか自分が。不思議なことにそんな楽観が松山の頭には存在したのやも知れぬ。それは人の、辛いことから目を向けようとする、そのような自然の摂理であったのかもしれないが。
 男娼。
 同じ男に身体を売ることで身を立てていく生業。
 数多くの仲間たちの中に混じって、唯一生気を失わない友人にその理由を聞いてみたいものだとは、松山はいつも思っていた。




お待たせ。御免ね。手間取っちゃって」
 本当はもう少し早くにはけるはずだったのだけれど。
 岬は柔らかな面差しを優しく綻ばせ、松山の傍らに腰を下ろしてくる。
 室内に存在する調度は粗末な寝台ただ一つ。それでも、個室を宛がわれているだけ自分たちの身分としては破格だった。松山自身、同じほどの待遇は与えられていた。
「ううん、俺こそ。客を追い返すような真似をしちまったんじゃないかって。・・・大姐に見つかりでもしたら怒られるな。・・・岬のお客、俺の方、ちらっと見てた。・・・軍人さん?」
 首を傾げて覗きこんだ松山に岬は微笑む。
「日本陸軍の将校さんだね。名前は若林、とか言ったっけ。松山のこと見てた?」
「帰り際に、ちらっと。あのお客、岬に入れ込んでいるんだろう?邪魔したのが気に障ったんじゃないかってさ」
 今度彼が店を訪う時には謝っておいてほしい。松山がそう口にする前に、岬は睫を落として微笑む。それはあくまでほんの一瞬の、表情の変化に過ぎなかったが。―――確かに、翳ったような。否、次の瞬間には岬の相貌は完璧に柔和だった。
「そんな人じゃないよ。大丈夫。でも、松山が気になるって言うんだったら、今度僕の方から謝っておくから。・・・気にする人じゃないと思うけど」
 むしろ、と岬は笑みを深めた。松山は一瞬息を飲んだ。
「噂に高いきみに見惚れたんじゃないの?ここに来るお客できみのことを知らない人間なんていないからね。“紅雪”、高嶺の花。自分もその馨に与ってみたい、ってね」
「止してくれよ。俺、その呼ばれ方、好きじゃない・・・」
 黒檀ほどに黒い艶のある髪を掻き、松山は俯く。皆、自分の運命を面白がって囃し立てているだけなのだと松山自身知っていた。これまで蓄えてきた過去の記憶が全て揃っているわけではない。けれども、松山のその身にはどう抗っても振り切れない現実が纏わりついている。
 数年前、何某かの思惑で死へと追いこまれてしまった自身の家族、そして上海一だったという商店。権益だとか資産だとか。松山のその背後にあるものはこの大陸でどれほどの価値に換算されるのか、それは松山自身想像もつかない。
 ただそんな数奇な運命に巻き込まれた自分のような人間が、あまつさえ男相手に春を売らねばならないという更なる天命の悪戯。周囲から向けられる好奇心など松山には真っ平だった。
 誰が名付けたのかは知らない。
 どうせいつかは来る日であるのならば、いっそ早くに全てを失ってしまった方が良いかとすら思えてしまう。誰が相手でも同じこと。所詮自分は。
「皆が俺を人形にして玩んでいるだけだ。誰が俺を最初に買うかだって?馬鹿馬鹿しい。支配人が売るって決めた相手に過ぎねえだろ、そんなこと。・・・俺に決められる道理なんてあるわけもなし」
「・・・ここはそういう世界だもの。玩ばれて幾ら。花にもならず散っていく人間もいるんだってこと、きみは知っておいても良いかもしれないね」
 松山は瞬時に頬に血の気を上らせた。何と自分の傲慢だったことか。岬の物言いは尤もだった。意に染まない客にも嫌が上でも足を開かねばならない現実。自分など、上流中の上流の客の、面白くもない茶飲み話に同席させられるのが精々だった。
 甘えてはいけないと、松山はそう鋭く刺されたような印象を覚えた。
「責めてるんじゃないよ?松山はそれで良いの。下界の汚辱に塗れない桃源郷の花。でもね。・・・下界には、花にもなれない前に踏み躙られる蕾もある。知ってて損になることじゃない」
「結局俺は、“松山”の名前の元に守られているだけのお人形さんだって言うわけか」
 額を指先で覆い、松山は振り絞った。岬は何を叱責するではなく見つめてくる。わかっている、自分がどれほど優遇された環境にあるのか。どんな理由であれ、気に染まない、男相手の商売を強制されるではない。目の前の相手だって、そう、つい先刻までそんな時間を強いられていた。自分は甘い酒を飲んでいるだけの時間だった。精々、貴公子然とした上客に手を握られた程度のもの。
「・・・俺は、人形じゃない」
「・・・知ってるよ」
「男相手の商売だって。・・・生きていくために必要だと言われるんなら、耐えてみせるさ。俺の生家がどんな家だったのか、俺は知らない。今の俺は行く当てのない、身よりもないただの“松山光”だ。そうしなければ食っていけないと納得できれば、俺だって進んで身を落とすさ。・・・岬の言う下界とやらに」
 俺は花でも何でもない。松山は相手の目を見て繰り返した。彼の白い指先が松山の頬を撫で髪を撫でる。柔らかな慰撫。自分に触れてくる男たちは決してそんな風には振舞わない、何処か切迫した。そう、獲物を検分するそんな眼差しを向けてくるばかりだ。
 松山はゆったりと目を閉じた。
「俺も、自分の力で生きてみたいんだ。・・・自分で何かを成し遂げたい。岬みたいに」
「僕?」
 岬は不思議そうに大きな瞳を見張っている。長い睫に縁取られた瞳の中に自身が映っているのが松山にも見て取れた。それは何て頼りない顔つきなのだろう。優しい面差しといえば、余程向かい合う相手の方こそ繊細であるのに。
 けれども、岬の中には何か一本貫かれたものを感じずにはいられないのだ。松山はそっと目を細めた。
「軍人さんのお相手でもしてさ。お国のために働いている人たちを影ながら支えている、・・・ようなもんだろ?せめて俺も、金にものを言わせた成金相手じゃなくってさ」
 先に出会った祖国の将校も、松山にはとても優しかった。そして純粋だったことを覚えていた。彼らの生まれた国を守りたい、その一心のために、遠く懐かしい故郷を離れ、彼らはこんな大陸へと赴いてきている。
 自分も、その手助けの一つでもできればと、ふと思ったのは自然なことだった。松山は岬に身を乗り出した。
「そうすればさ。俺達の仕事だってただの売春じゃない。少しは、どこかで何の役にでも立っているのかもしれない。・・・俺達の国の、同朋のためにさ。そう思えれば、・・・俺、思うことがあるんだ」
 岬は言葉もなく見つめてきて微笑む。
「岬のお客は、陸軍でもかなりのやり手だって噂に聞いた。若手の中では出世頭だって。・・・そういうお客を相手にしてさ、俺達にできる限りの手助けをするんだ。お国のために、一生懸命頑張ってもらうために。・・・軍人さんはさ、それこそ前線で命を張って仕事するわけなんだからさ」
「・・・松山」
 岬はふと睫を伏せた。松山には声も出ない。彼が見せたのは、これまで一度とて伺わせたことのないような、そんな何処か寂しい顔色に違いなかったからだ。岬はにっこりと微笑んだ。
「国のために仕事をしようなんて、思っては駄目。国のために働く軍人さんの手助けをするために、身体を提供しようなんて思っては駄目。・・・松山は松山のために。そう、松山が生きていくために、そうすることが必要なだけなのだから」
 松山にはその言葉の意味を一瞬量りかねた。岬はまた穏やかに髪を梳いてくれる。彼の唇は優しく自分の頬を撫でる。心地良い、胸に満ちてくる彼の馨は花の匂いがするようだった。松山は頬を熱くした。
「松山は松山のためにしか生きないで。・・・僕にはそれしか言えないけれど」
「・・・岬は」
 岬は松山を緩やかに押し倒し、上から覗きこんできた。艶やかな微笑。なるほど彼に入れ揚げたくなる男の気持ちもわからないではなかった。松山は知っている。岬がこの店に通う幾人かの政府高官とも褥を共にしていることを。
 それが、彼の客の政敵とも言える相手であるのは、一体どう言う意味なのだろう?
 松山には問えない。岬の唇に結局言葉は塞がれた。それはあくまで労わるような種類であったけれど。
「僕があの人と通じてるのは・・・ただ、お互いに懐かしいからに過ぎないんだよ?あの人が僕に求めているのは、戦意を昂揚させるような、そんな励ましじゃない。故郷が同じなんだ。・・・偶々。懐かしい思い出話。お互いに国を離れてから、もう、随分と経つんだもの・・・」
 自身がそうされるように、松山は岬の粗末な襟を開いた。そこに見出される紅い花。“紅雪”それこそ、白い雪のような肌に染みを落とすように、それは舞い散っているようにも見える。何と言う皮肉だろうか。そう呼び称される自分には一度もそのようなものが降ったことはないのに。
 松山はやはり微苦笑せずにはいられなかった。
 それでも。
 松山の指は岬の柔らかな髪を掻いた。
「何もしないよりはマシだ。酒に太った親父たちの四方山話。何が金になるだとか、どこに鉄道を作るだとか。・・・そんなことを聞かされて、俺は一体何になるんだろう」
「・・・ねえ、松山」
 彼の背後に窓を従え、そして唯一の乏しい明かりも彼の背の向こうに見え隠れしている。松山には覆い被さってくる岬の表情など確かめる術がない。優しい、友人の顔色。岬の肢体は決して大きいとは言い難いのに、華奢なそれは独特な雰囲気を纏っていた。
 それこそ指で触れれば傷つけられてしまいそうな。茨の棘のような、そんな種類であろうか、松山は目を見開き、息を詰めた。
 岬は微笑んでいた。相変わらず優しい、友達のまま。
「・・・だったら、僕の代わりに、あの人の相手をする気はない・・・?僕もね、長くはこの店にもいられそうにもないんだ。こちらの事情にも良く通じていて・・・日本人で。・・・話し相手にね、なって上げられる人を探しているのだけれど」
 どう、と癖のない細い髪を揺らして岬が尋ねてくる。松山は思わず、身を起こした。
「・・・話し相手・・・」
「そう。彼は元々北方の前線に配属されていたらしいから・・・まだ上海のこととかにはあまり詳しくないらしくて。江南のこととかね。松山の知っていることを教えてあげてくれたら、彼もきっと助かると思うんだ。・・・こちらに早く馴染めると思うんだけど」
 特にそれ以外の事をする必要はない、岬は明瞭にそう囁いてくる。松山はその瞳を覗きこんだ。感情の読みきれない眼差し、だと、思わないわけではなかったけれど。岬の手はそれでも松山には優しかったから。
「意に染まないなら、身体なんか売らなくても良い。あの人が求めているのはそういうことじゃない。ただの話し相手だから」
「・・・でも・・・」
 では、岬の肌に残るそれは何なのだと松山は問い質してみたかった。それは無粋な質疑でもあっただろう、だから訊けない。
 ああ、そうか。
「・・・俺には、岬の代わりが完全に務まるとは思えないけど」
 あのお客は岬のことが好きなんだよな。
 松山は得心し、頬を綻ばせた。だから、身体をも求めているのだろうと結論付けた。自分には必要ない、そう岬に言い含められた理由をそれ以外には松山には思い当たれない。
 岬は嫣然と微笑むばかりであったけれども。
「・・・好き、ね」
 そうかもしれないね。
 笑った岬の真意を汲み取ることは松山には難しくて、岬の優雅な手を拒むこともまた困難だった。彼は何を強いてきたわけではない。ただ、慰めるように。
 その日が来ても怖くないのだと、そう囁いてくれているように松山には感じられた。
 目の前にちらつく紅い痕が目に付いて離れなかった。
 何時の日か、自分にも舞い散るという、紅い、雪が。
 松山はそっと目を閉じた。今は友人との不意の別れを惜しむのみであった。煌々と照らし出す有明の月の下。




ああ、碧様!!!
素晴らしい岬松をありがとうございます〜〜〜〜〜〜!!!
チャイナな岬松・・・。ええ、実は碧様にかいていただきたいがために、源様と岬君を設定に盛り込んだ私です・・・。ふふふ。
もう、もう、ほんと何度よんでも素敵なお話!!
松山くんの悩んでるところとか、岬君スキスキ具合(笑)とか、岬君の松山かわいがってくれるところとか、もう全て、ええ全てが大好きです!!
そして視線を投げる陛下(若林大尉)にもくらくら・・・。一瞬だけの御登場でしたが〜〜〜〜!!
なのに、せっかくのお話に無駄に3マイも挿し絵つけちゃってスイマセン・・・;;
ゴメンなさい!!反省してます!!!
是非、皆様には画像を読み込まず、テキストだけで閲覧していただけたらと・・・(爆)。
紅雪の名に恥じない松山を描きたかったんですが、ただの小僧になってしまいました(泣)。
つ、つぎは頑張りますので(え?)、皆様碧様の次回作を楽しみにしようじゃありませんかっ!!

それにしても岬松・・・よいですねえ・・・(しみじみ)。
ああ、これで岬くんは共同租界を去ってしまうのですね!!淋しい・・・。
もっと、もっと松山といちゃいちゃしてほしかったです〜〜〜〜。(おい)
ええ、もちろんダーリンズは日向さんと陛下なんですけどっ。(ココ重要)

ほんとにほんとに碧様!!
素敵な上海をありがとうございます〜〜〜〜!!!
 (01.11.25)