「じゃあお先に〜。あんまり根つめるなよ」
「はい、お疲れ様でした」
店の片づけを終え、着替えも済ました店員達がひとり消え、二人消え。
いつのまにか、まだ制服のままでいるのは自分一人になっていたようだ。
既に2、3階のサロン部分の灯りは落ちている。
1854年に設立されたフランス流紅茶専門店『マリアージュ フレール』日本店。
松山の勤める銀座本店は、パリの本店をそのままに模した内装、お茶をいれるスタイルに至るまで全てフランスの店を踏襲しその姿勢と美学を貫いている。
都内にあるいくつかのショップとは段違いに扱う茶葉の種類が多く、その数450種あまり。
あまたの紅茶好きが足しげく通う店だが、全てのお茶に精通しているお客はそんなにはいないであろう。そのため、スタッフには客の求める香りや味などの要望に適確に対応し、ぴったりの茶葉を選ぶという技量が求められる。
そのためには、自分でその香りと特徴を覚え、言葉で人に説明できるようにしておかなければならない。
松山は、この店には数カ月前に入ったばかり。
現在は2、3階にある『サロン・ド・テ』のギャルソンを担当している。
ここでお茶を飲むお客は、既に好みの銘柄がある人や、その反対に全く初めてのお客で『本日のお薦め』を選ぶ人が多いため、勉強中の新人でもどうにか対応できることが多いためだ。
第一、お茶の名前がサムライ、エロス、アルテミス、セレナーデといったフレーバーティーにいたっては、一体どういうモノなのか名前を一目みただけではわからない。
ごくたまに好奇心旺盛なお客が『これはどういうもの?』ときいてくるぐらいで、いわゆるマニュアル通りのブレンドしている茶葉や花、香料、イメージを伝えればなんとかなる。
しかし、松山はそれに安易に満足することなく、早くお客に自分の言葉で、自分から茶葉をすすめられるようになりたいという目標に向けて、店が閉ってからひとり居残って勉強することを願い出た。
正社員ではなく、アルバイトの松山に「なにもそこまで」という者もいなくはなかったが、勤務中の熱心な態度と何ごとに対しても純粋な想いは、彼自身の人柄とともに、皆に受け入れられ今がある。
天井までの壁一面に陳列された、黒い大きな茶缶を大事そうに一つ一つ下ろしては、蓋をあけ、その香りを確かめ、メモをつける。
「熱心な事だな」
急にかけらた声に、吃驚した松山は思わず、びくっと体を引きつらせてしまった。
そのあまりにも驚いた態度に、声の主がくっくっと笑いながら姿を現した。
「・・・なんだよ・・・日向か。お前こそ、まだいたの?もお帰ったのかと思ってたよ」
「ん・・・。おまえメシは?」
「まだ。そうだなー、あとちょっとしたらあがるから。日向も一緒に食ってくんならもすこし待ってろよ」
「ああ」
松山よりも更に数カ月早く、バイトにはいっていた日向とは、年も同じの大学生だったということもあり、ここでは数少ないタメ口をきける仲だった。
日向は、制服の白い麻のジャケットを脱ぎそれをカウンターにぽん、と置くと、頬杖をつきながらだらしなくカウンターに寄り掛かり松山の手元を眺めた。
視線を感じた松山が、ふと作業の手をとめ、正面に凭れている日向をみてニヤリと笑う。
「奥様方の憧れの日向君が、そんなにだらしないカッコしてると皆さん幻滅するぜ」
精悍な顔とスタイルの日向は、店によくくるの客の中でも評判で、けっしてそういう類いの店ではないのだが彼にポットをサーブされることを予約時に望む常連客もいた。
流石にそれに対しておおっぴらに応えるような店ではなかったが、特に混んでいなければ、日向が希望する予約客の担当をすることもあったため、ますますその人気は高まっているようだ。
店のコンセプトでもある植民地時代をイメージした、涼しげな麻の白いスーツに蝶ネクタイの日向が、重いウォーマーポットをいとも簡単に片手で持ち、流れるように美しく、紅茶をカップに注ぐ所作に女性客はウットリするしかない。
松山にいわせれば、色黒なのが植民地の執事をほーふつとさせるところがいいんじゃねえの、となるのだが。
日向にとってはあくまでも仕事である。
向ける笑顔も丁寧な言葉もあくまでも労働の一部に過ぎないのだが、勘違いする客は少なからずいるらしい。
「幻滅してくれて結構だぜ・・・。ったく、茶飲みにきてんだか、なんだかわかんねえ客多いよな最近」
「でも、それで色んなお茶の美味しさに気付いてくれるようになれば、いいんじゃないか?」
「ほんと真面目だなオマエは。そーゆー松山目当ての客だって増えてるだろうが」
「えっ?そんなお客さんいねーよー。俺なんかさー言われた通りにお茶はこぶだけで精一杯だもんよ」
「知らぬは本人ばかりなり・・・か」
「なんかいったか?」
入ってまだ数カ月だったが、松山目当てのサロン客が増えているのは確かだった。
日向とはまた違った、爽やかな笑顔と、一生懸命さがあふれるその接客に、一番はじめに微笑んだのは、ほぼ毎週やってくる年輩の男性客だった。
特に特別なことをしたわけではなかったのだが、何か彼の心を打つものがあったようである。
久しぶりにもてなされた気がするよ、とマネージャーに告げて帰ったらしい。
あからさまに指名したりしてくる客はいないのだが、頻繁に店に訪れてはきびきびと働く松山の姿を目でおう客がよくみられるようになった。
本人は全く気付いていないことに、まわりの店員達は苦笑するばかりだった。実際、彼等も同僚ながら松山の姿に目を奪われる事が多かったからである。
何故か人の気を引き付ける不思議な存在。
茶缶を棚に戻し、メモをつけていたノートを閉じ、カウンターを綺麗に拭き終わった松山がようやく大きく伸びをした。
「今日はオシマイ!あー、腹減った。日向待たせたな。とっとと着替えて帰ろうぜ」
なにかを考えているような日向に、ほれっと肩を叩くと松山は先にたって更衣室へと促した。
広い店内に既に人気はなく、二人の服を脱ぐ衣擦れの音だけが妙に響く。
やけに白く感じる蛍光灯の下、松山は、ジャケットを脱ぎ、手で皺を一生懸命伸ばしながらハンガーにそれをかけていた。
「おまえバカじゃねーの。麻なんだから皺が全部とれるわけねーだろうが」
「うっせーな、知ってるよ。もともとの素材の皺じゃなくて、着てるときについちまったやつ取ってんの!袖とかしわしわだったら、みっともねーだろうが・・・」
少し大きめにできている制服は、特に華奢なわけでもない松山をほっそりと見せる。
ウエストが少し緩かったらしい松山は、サスペンダーをつけて履いていた。
「コドモみてーだな・・・」
「なにが」
「これ」
相変わらず皺とりに熱中している松山に、シャツのボタンを全てあけた日向がその手を止め、サスペンダーを引っ張り、びちんっと離した。
「いってえ!!!!なにすんだよっ!」
「いや、かわいいなーって・・・」
「おまえは、すぐに可愛い可愛いゆーなっ!!!」
顔を真っ赤にして怒る松山に、思わず笑ってしまう。
「笑うな〜っ!!いいから早く着替えろよっ!!」
ふんっ、と日向に背を向ける姿が、余計にコドモのようで日向は笑いを押し殺すのに精一杯だった。
「松山」
「・・・んだよ」
「お前、バイトやめねえ?」
「なんでっ!」
突然の言葉松山は振り向き、びっくりしたように目を見開きじっと睨み付けた。
この馬鹿は何を言い出すんだという、自分を見つめる訝しげな表情にすら、日向は惹き付けられてしまう。
松山が入ってすぐに、一目惚れをした日向はその日の内に告白し、『俺の事を嫌いでなければ、うんと言え』と嫌いも好きもわからぬ松山に答えを強要し、勢いのままうなづかせてしまった。
当初はその強引な日向に、ことごとく反発していた松山だったが、つき合ううちに気の合ういい友人以上(松山的には)には受け入れてくれるようになった。
「だってよ・・・お前モテすぎるんだもんよ」
「はぁ?」
「今日もあいつきてただろう。なんか話してたな?」
「あいつって・・・ああ、三杉サンのこと?別に特段はなしてねーけど。そうそう、俺らと同い年なんだって」
「客とそんなこと話す必要ねーだろうが」
「でもお客さんは、店員に顔覚えてもらうの嬉しいと思うぜ?変な話してるわけじゃないし、いいじゃんか」
「俺はやだ」
「・・・あのなぁ・・・」
自分をここまでも求めてくる日向。
最近ではしょうがないなぁという気持ちだけではなかった。
自分も日向に対してそういう気持ちがなくはないということに、松山は気付いてしまった。
同性なのに流されまくってしまって、ちょっと情けなかったけど。好きなモンはしょうがねーよなーと、天性の前向きな(?)性格は現状を受け入れることに長けていたようだ。
わざと、拗ねたように日向を見上げる。
「おまえこそモテすぎじゃねーか」
「えっ?」
「・・・・いや、別に妬いてるとかじゃねエけどよ、そんなやつが俺の事どうのこうのいうのって・・・あっ!」
日向に肩を掴まれ、引き寄せられる。
眉を顰めて見上げた日向の顔は、苦笑混じりの困ったような表情。
「しょうがねえじゃん。俺、お前に大してはすげえ独占欲が・・・」
「俺、今この店好きだから辞めねえよ」
「・・・・・」
「それに・・・」
はだけられた日向のシャツの襟元を、ぎゅっと掴む。
「お前の事も───」
好きだから、という言葉は日向の口付けに飲み込まれる。
松山はそっと目を閉じ、それに応えた。
_end._