空蝉


高階碧さまより

 心に決めていたことが一つあった。松山はいつもの如く酒の給仕を勤めながら、じっと胸で考えていた。
 
格子の嵌め込まれた窓枠からは、時折薄雲に遮られつつも、銀の光が淡く差し込んできている。良い月の夜であった。
 
床の間に据えられた山吹の枝が云い様もなくとても見事で、男は、それを肴に酒を呷っているようであった。
「どうした。気も漫ろだな。何か気に掛かることでもあるのか?」
「あ、・・・いや」

 松山は弾かれたように顔を上げた。粗相があってはならぬと、上の者からも、そして男の本来の相伴の人からも強く言い
含められている相手であった。

「それにしては」

 男は喉の奥で笑いを噛み殺していた。松山は瞬時、頬を朱に染めた。若林は、松山が今向かい合っている男は、この見世
でもおそらくは相当の上客の部類であり、彼の座敷に侍りたい人間は多いのだと、見世の女将にもそう熱く説いて聞かされ
たものだった。
 
金払いも良い、無茶な要求はしない、なるほど勤める身にあっては、望むべくもない客でもあろう。
 
だが。

「・・・何だ?」

「岬を呼ばなくて良いのか?」
「あいつは一度来ないと言ったら、絶対に顔を見せん奴だろう。・・・良いさ。おまえが付き合ってくれるんだろう?」

 若林は肩を竦めて笑い、松山の杯に酒を注いだ。

「まあ、飲めよ」

 こんな風に無為な夜が幾度続いたものか、松山には数えることも虚しかった。
 
松山は辛い酒を含みながら、思っていた。これで良しとできる筈もない。何かが違う、そんな思いは常に付き纏っている。
自身は一体、ここで何をしているのだろう、と。

 この世界に身を落としてから、早数ヶ月も経つものを、未だ現実から逃げ惑うばかりである。松山は拳を握り締めた。既
に全てを知りもした身、今更怖いことなどあるわけもなかった。
 
自分は上手くやり遂げた。そう、あの男の腕を受け入れ。恐れることなどあるはずもない。教えられたままに。
 
友人である先達の艶やかな面差しが松山の眼前をちらついて離れなかった。松山は首を軽く振って払い除ける。男の背後
にその影を垣間見ては、松山は胸の辺りをきつく抑えた。

「・・・どうかしたのか?何だか、様子がおかしいぞ?」

 若林はふと心遣うように、俯いた松山を覗き込んでくる。顔を上げ、松山は訴えた。

「若旦那。頼みがある」

 二人の間に据えられていた膳を押しのけ、膝行るように進み出た。不可思議に首を捻る若林に、息を詰め、そして松山は
打ち明けた。

「俺を貰ってほしい。岬には、済まないことだと思ってる。でも、このままじゃ・・・」

 自分はいつまで経っても前に進めない。いつまでも、殻の付いた雛鳥のまま。一生涯外に飛び出ていくことは難しいだろ
う。想う相手と顔を合わせることも夢の、その先には違いない。
 
若林は見張っていた。

「・・・どういう心境の変化だ?」
「・・・この世界でやっていくためには、越えなきゃいけない壁なんだろう?いつまでも尻込みばかりはしていられない」
「・・・岬にそう言われたのか?」
「岬からは、もう、とうの最初から言われてるさ・・・」

 松山は下向き、きつく噛み締めた。羞恥で身が焼けるような思いもあった。視線を当てられるのでさえ耐えられない。け
れども、ここで慄くわけには行かなかった。一日も早く。
 
そう一日も早く、自由になりたい。その思いが今の松山には勝っていた。

「・・・駄目か?」

 相手に想う人がいることなど知っている。それでも。
 
そう、決断してしまった自身に、松山は正直驚きを禁じえない。気付かぬ振りをした。
 
若林は正面から、真っ直ぐに見下ろしてきた。
 
張り詰めた空気が肌に痛く、月の光にすら刺し貫かれる錯覚を松山は覚えた。

「後悔は、しないんだな」

 声音は低く、けれども松山には優しかった。目を閉じて頷き、そして暗闇の内に身を委ねる。脳裏を掠める面差しからは
視線を背け、そして浅く溜息を吐いた。
 
誰かに聞き咎められないか、そればかりが不安でもあった。




 随分と手馴れたものだと、判断できる分だけ、自分は冷静だということだろうか。
 
松山はじっと相手を見つめていた。帯を解かれるそのつぶさまで眺めていると、男は軽く笑った。

「そういう時は、少々恥らうくらいが礼儀だぞ?物珍しそうに検分なんかするもんじゃない」

 指摘され、松山は頬に血の気を上らせた。正直、実感が湧かなかったというのが真実だろうか。自身が何をしようとして
いるのか、何をされているものか、今ひとつ夢心地から冷め切らぬ気がしていた。
 
若林は手早く衣を寛げた。

「岬は」
待った」

 松山は指で唇を塞がれ、言葉を封じられる。

「ここにいない人間の話はするな。興が冷める」

 苦笑い、言い含める男の言い分は尤もであった。松山は大人しく、されるままになった。良くはわからない。けれども、
こんなものなのだろうかと、何か違う感覚に苛まれ、そしてそのまま打っ遣った。考えるだけ無駄だと決めた。
 
なるほど気も漫ろで相手をされては、客に対して失礼でもあろう。窘められる前に、苦笑で詫びた。襟元を寛げられ、そ
の内に唇を這わされた。身体の奥を熱いものが湧き上がってくる。その名は“愉悦”という種類には違いない。割り広げら
れた着物の内に忍び込んでくる手は優しかった。
 
松山の悪いようにはされなかった。
 
荒々しさとはおそらく無縁の、手馴れた愛撫であるのだろうとは、ぼんやりと霞んでいく意識の中で感じていた。事実、
息は面白いように上がっていく。胸元を押し広げられ、足の付け根に指を絡められると声を殺していることも難しい。

「・・・っ」

 豪勢な錦布団の感触が背に冷たくて。松山は身を捩り、押し寄せてくる感覚を堪えた。それは漣のように引いていくどこ
ろか、強く叩きつけてくる荒海にも似ている。どこか冷えた脳裏の片隅が、そんなことを思い描いていた。
 
巧みに嬲られれば頂点へと上り詰める悦楽もある。
 
けれど。
 
肩で息をし、松山は相手を見上げた。若林は真情の伺えない顔色で見下ろしてきていた。眦を指で拭われ、自身が泣いて
いたのだと、初めて松山は思い知らされた。

「・・・止めるか?」

 嫌悪でそれが溢れ出るのではない。松山は首を振り、先を促した。ここで引き返しては全てが水泡に帰してしまう。例え、
“違う”その感覚は拭いきれなくとも、それでも自分はこうして生きていかねばならないのだ。
 
いつか終わりが見えるその日まで。

「良い。あんたさえ良ければ」
「何だか、・・・悪いことをしているような気分だ」

 若林は低く呟いた。言葉にし難い苦い笑みを湛える、松山はそんな相手を見返した。自分から望んだことであるのに。彼
は無理強いしているわけでもない。首を傾げ、松山は嘆息する男を見返した。

「良いんだな?」

 男の決まり悪さを、彼の思い人への気兼ねと受け取り、松山はそんな一瞬、同様に居たたまれぬ罪悪に駆られた。思い出
すまい、そう戒めていた影が脳裏を過ぎる。言い交わした相手の。
 
松山は瞬時息を飲んだ。
 
強い感覚に、全てが押し流されてくれればと思う。恐怖はなかった。虚しさがあっただけ。こんな想いの通わない行為で
あってさえ上り詰める自身の身体が厭わしかった。そんなものだと、どこかで高を括らないでない。
 
そうして、自分たちは生きる糧を得ていくのだから。
 
零れ落ちる雫を拭い取ってくれる指は決して乱暴でも、不粋でもなかった。むしろ救われる気がした。
 
忘れ得ない手の方が余程荒々しく不躾で。
 
なのに。
 
忘れられない、と松山は啜り泣くのを留めることはできなかった。




「落ち着いたのか」

 呆然と座り込んでいた松山の背に、不意にそんな声が降った。随分月は傾いているように見えた。
 
緩やかに顔を上げ、松山は振り返る。

「何か飲むかと思ってな。白湯を貰ってきた。落ち着くぞ」

 ほら、と湯気の立つ湯飲みを差し出され、それと相手の顔を交互に見交わした。

「すまない・・・」
「いや」

 金を払う側の相手にこんな真似などさせて。後でこっぴどく叱責されるだろう、とは松山も溜息を吐き、覚悟した。若林は
さほど気にする様子でもなかったが。彼は窓の縁に腰を下ろし、未だ提灯の明かりが消えぬ、賑々しい階下を眺めている。色
とりどりに着飾った徒花の姿なり、其処彼処に見受けられたに違いない。若林はそれを興味もなく眺めているようであった。
松山には何も言えなかった。

「これでおまえも一人前。・・・明日からは、あの格子の奥に立つのか?」

 視線を向けてくるでもなし、一人ごちるように若林は呟く。松山は横顔を凝視した。

「何?」

「向いていない。止めた方が良いと俺は言ったんだ。おまえは、愛想をふり向く裏側で嘘を吐けるほど器用じゃない。正直す
ぎる。できるなら、止めた方が良い」

「・・・どう、して」

 そんなことを言うのだと、松山は声を押し殺すことができなかった。肩を竦め、振り返ってくる男、松山は鋭く睨め付けた。
若林は意に介することさえなかった。

「こういうところはな。上手く嘘を吐いて幾らの世界なんだ。一刻後には他の男が待っていても、それでも今だけは、“貴方
しかいない”そんな顔をして褥に入るような場所だ。おまえにできるか?」

「・・・俺は・・・っ!」

 どうしてそんな。そんな真実を穿つのかと、松山は震える声を押し留めるのに躍起になった。明るみに晒されたくはなかっ
た。自分は、なるほどそんな巧みには嘘はつけない。どれほど熱く愛撫されても、おそらくは心の底を偽ることは不可能であ
ろう、胸に過ぎる面影を消し去ることは難しくて。
 
松山は唇を噛み締めていた。それでも生きていかねばならないのだと、そう訴え、そして緩く抱き締められた。恋しく思う
相手にするのではない抱擁、松山はそう直観し、受け入れた。激しい嵐のようなあの感情とは、また異なる感慨はある。
 
それを嬉しいと感じるべきなのか否かは、今の松山に判断することは易しくはなく。
 
だから素知らぬ振りをした。

「悪いことは言わん。これきりにしておけ。岬に何を言われても構うな。あいつはおまえさんとは違う」

 若林はそう苦笑し、静かに身を離したのだった。軽く髪を小突かれ、もう寝めと松山は諌められた。

「惚れた奴のために取っておいてやれ」

 と。
 
そうして生きていけたら。
 
一体どれほど良いだろうか。
 
寝付かれぬ褥の中で、松山は幾度となく考えていた。どう進めば良いのかなど思い当たる節もなかった。夜も明ける頃、傍ら
を抜けていく男の背に、ただ侘しいものを噛み締めていた。
 
漏らすまいと堪えていた嗚咽を、堰き止める術など知らず。
 
白々と開けていく暁に紛れ、灯り続けた灯篭が緩やかに消えていくのを、まんじりともせず、松山は眺めていた。





きゃあああああああああ!!!!!
 皆様、皆様、皆様!!!!
 高階碧サマの、あの禁断の(笑)小説「空蝉」でございますよ〜!!(高階碧サマの素敵「源岬・松小次サイト」
夢の、また夢さまの秘密の場所で連載中♪)
 しかも、禁断中の禁断(爆)、源松でございます。

 いやぁ〜ん!!!どうしましょうどうしましょうどうしましょう!!!
 「空蝉」萌えのワタクシめが、勝手に「お仕事では初の松山vvv」とかってイラストをあげたのを御覧頂き、速攻送って下さいました!!
 ええ、ほんとは確信犯です(笑)。碧サマのお宅ではやはりあげられないのなら、下さいませと申し上げておりましたが、本当に下さるとは〜〜〜〜!!ありがとうございます〜!!
 そして、ワタクシも速攻、旦那と松山を描かせて頂きました!(爆)
 しかも剥いてます!!!!いや〜!!!!
 ふ、・・・・・描きたかったんですね。
 なんだか胸のつかえがおりたというかなんというか。今までの漠然とした気持ちはこれだったのですね(笑)。
 だけど、旦那さまかっこいいです!このひとなら、いっか〜とか思っちゃいますよねvvv
 そしてやっぱり松山が〜、もうもうぐるぐるしてて可愛いよぉ〜〜〜〜!!
 あの無骨な彼が忘れられないところとか!!!!!!!!
 あああああああああああああああああん!!!

 興奮してうまく呼吸もできないくらいです〜!!
 感謝の言葉もうまくでてきません!!
 私の思いは全てイラに込めました!む〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん!!!
 碧サマ愛してます!!!

 是非、こちらのお話と合わせて本編「空蝉」もお読みになってくださいませ〜!!萌え度アップでございますよ〜!!!

  (01.09.27)