浅い眠りから、日向は目覚めた。
目を閉じたまま長い前髪を掻きあげて、ふと伸ばした右腕に感じるはずの重みがないことに気付き目をあけた。
時計を見ると、午前4時過ぎ。ということはまだ3時間もたっていない計算になる。
―――松山はテレビを見ていた。
薄暗い部屋の中、テレビ画面が照明がわりとなって、両膝を抱えた姿を浮かび上がらせている。
日向が裸足で歩いてくる音は聞こえているはずなのに、松山は振り向きもせず、身動きすらせずただじっとテレビに見入っている。
日向は松山の真後ろにたち、わずかに体を屈めてその画面を覗き込んだ。
それは何かのドキュメンタリー番組らしく、少なくとも日本ではない国の自然の風景が写し出されていた。
音は消してあったので、そのぶん何となく画面に集中してしまう。
「―――どこの国だ?」
日向の質問に、知らねえ、と松山がそっけなく答える。
しかし、タイミングよく画面にテロップが表示され、そこがアラスカの国立公園であることがわかった。
アラスカか、と日向は興味深そうに呟いた。
「ヒグマを見物できるところがあるんだよな」
知らねえ、と松山がまたそっけなくいう。
「俺、アラスカなんかいったことねえ」
「俺だってないけどよ」
日向は小さく笑った。
そして、すこし肌寒さを感じた日向が上着を取ってくるために寝室に戻ろうとした時、日向、と松山が呼んだ。
ん?と日向は返事をしたが、松山はすぐには話し出さない。
「なんだよ」
日向は松山の頭を軽くたたいた。
「―――イタリアもいったことねえ。・・・イタリア・・ってココから何時間かかるんだよ」
ぼそぼそと、静かな部屋の中でさえききとりにく声で松山がいった。
そして日向の答えもまたずに続ける。
「イタリアって寒いのか?ユベントスって何処にあんだよ?おまえイタリア語しゃべれんのかよ?」
なおも質問を重ねようとする松山の口を、日向は片手でそっと塞ぐ。
泣いてはいない。
だが、松山が感情を昂らせていることは確かだった。
「―――あのなぁ」
日向は松山の前にまわりこみ、長身を折って松山の顔を見つめた。
「こういう場面じゃ、俺の胸にすがりついて泣くってのがお約束ってもんだろ?」
珍しく、松山が小さな声で、でも、と目をふせる。
「行くな、っていっても行くんだよな」
「ああ」
「もし、すっげえ泣いても行くんだろ?」
「ああ」
静かなため息が、松山の口から漏れる。
「・・・・だから、めんどくせえことって、嫌いだから」
―――こういうとこは素直じゃないんだよな。
日向は苦笑して椅子に座る。
松山はさっきから、一度も日向と目をあわそうとしない。
かといって。
お前を置いていけない、などと安手の恋愛ドラマみたいなことを日向がいったりするのは、もっとイヤだということを日向は知っている。
そもそも同じサッカーの世界で共に戦ってきた松山が、今回の日向のセリエA 行きを一番喜んでくれていたのだ。
それが今になって・・・、いや今だからこそ、松山の秘めた思いがこぼれてしまったのかもしれない。
「―――頭がいいんだか悪いんだか。そうやって相手の反応を先読みしてさっさと結論をだすんじゃねえ」
「・・・・・」
「くだらん誤解を生むこともある」
「・・・いいよ、そんならそれで」
「俺はイヤだぜ?」
松山がようやくまともに日向をみた。
日向はくっくっと笑う。
「俺は頭がいい。お前が、寂しがりやでほんとは甘ったれの、どうしようもなくバカな子供だってことを見抜いてる」
いけしゃあしゃあと言い放つ日向に、松山がバッと立ち上がった。
「バカなコドモ・・・だとぉ?てめえなに言いやがる!!俺が甘ったれ・・・っ、お前は頭がいいだと?この自信家め!!傲慢ヤロー!!」
松山に強く批判されても、日向は反省の色など微塵もみせない。
それどころか、腕を伸ばして目の前にいる松山の頬をたたき、にやにやしながら言う。
「―――そんな俺をお前は好きで好きでしょうがねえんだよな?」
「・・・・・・・・・・・・陰険!!!!」
今にも爪をたてて引っ掻きそうな顔で松山が唸る。日向は楽し気な笑い声をあげた。
しんみりされるよりも、突っかかってこられる方がよっぽどいい。
「もう終わりか?今のうちにたっぷり言えよ?貴重な御意見も当分はきいてやれねえからな」
流れの早い雲が一瞬にして太陽を隠してしまったように、松山の表情がまた陰りを帯びる。
それを悟られまいと、松山は視線をはずし日向から離れようとした。
日向がゆっくり立ち上がり、両腕で松山を静かに束縛する。松山が顔を背ける。
おい、と低い声で日向は言った。
「―――そうやって誘うのはやめろ」
視線をそらしたまま、そんなことしてねえ、と松山が小さな声で言う。
「自覚がねえのが一番タチが悪い」
日向は咽の奥で笑う。
松山のきれいな瞳が日向を見上げ、微かに開かれた唇が何かを語ろうとした。
それを日向が唇で封じ込める。
テレビ画面は、モティスフォント・アビーのローズ・ガーデンを紹介していた。
再び開かれたきれいな松山の瞳をみつめ、日向は言った。
「お前も早くこい。お前ならすぐにでもこられるはずだ」
「―――」
「俺も、なにか他のものくわえてんじゃないかって、余計な心配せずにすむしな」
画面に咲く絢爛なバラが、部屋の照明をとても鮮やかにする。
振り上げられた松山の手を、やすやすと捕らえた。
「何恥ずかしがってんだよ?さっきませ、あーんなことやこーんなことしといて」
松山が日向を突き放した。
そしてまたテレビの前に戻って、リモコンを手にした。
それを後ろから奪いとり、日向はテレビを消す。
松山が不機嫌な顔で日向を見上げた。
「まだテレビ見るんだよ!!」
「もう終わりだ」
「うっせーな。リモコン返せよ!」
「ダメだ」
日向は松山の耳もとで囁いた。
「―――真っ暗じゃねえとマズイことを、これからすんだからよ」
おしまい。