上海物語 4

 

 身体の痛みのせいか、眠りの淵に引き込まれそうになりながらも、すぐに覚醒に引き戻されてしまう。いったい何時間そうしているのかわからない。
 ぼんやりと薄暗かった天井は今は真っ暗だ。
 闇に目が慣れたとは言え、光は全く感じられない。
 この部屋を満たしているのは遠くに聞こえる波の音だけ。あとはみじろぐ自分の衣擦れの音と吐息が空しく響くだけだ。
 自分は誰かに助けられたのか。しかしこの状態が助けられたと言えるのだろうか。
 実際のところ、粗末な寝台に横たえられただけなのだ。
 猛烈な喉の乾きを覚え、必死に上体を起こそうと腕に力をいれる。
 時間をかけてようやく起き上がると、そうっと自分の身体を触った。一番痛んでいる脇腹から背中にかけてに指の伸ばす。
 破れたシャツをまくりあげようとすると、引きつるような痛みが走る。
 肌にくっついてしまっているようだ。
 少し力をいれて引き剥がしてみる。

 ざらっとした感触。固まった血の感触だ。どうやらここが切れていたらしい。
 同じような切り傷の跡は全身にあるようだ。
 固い寝台に手をついて、おそるおそる立ち上がってみる。
 どうやら脚の骨が折れたりはしていないようだ。痛みを無意識に庇う不安定な前傾姿勢になりながら、ゆっくりと水を求めて歩を進めていく。
 恐ろしく時間をかけてたどりついた土間で一際大きな土瓶に、恐る恐る手を伸ばす。
 冷たい液体。指先を舐めると真水らしい。
 土瓶にためられた水をようやくみつけ、貪るように喉に流し込んだ。
 身体に水分が行渡り、停止していた細胞が生きかえっていくようだ。
 ふと、視線を落とすと足元の様子がぼんやりと見えてくるようになった。雲に隠れていたらしい月が顔をだし、暗かった部屋に白い光が満ちてくる。
 
 ひかる───

 誰かに呼ばれたような気がする。
 唯一確かな記憶。自分の名前・・・たぶん。
 あの、懐中時計に刻まれていたH.MATSUYAMA。そうだ。やっぱり。
 ひかる。

「俺は・・・ひかる、だ。まつやまひかる・・・


 口にだしてひとことひとことを確かめるように。
 それ以上のことはやはり、思い出せない。でも、確かに自分は今ここにいる。存在している。
 
「人間って・・・案外丈夫にできてんだな・・・」

生きなきゃ。
 生きたい。
 生きる。

「俺はこれからどうすればいい?」

 月の光はただ照らすだけ。でもその光の向こうには何かがあるだろうか。
 波の音が答えてくれるだろうか。風が道を示してくれるだろうか。
 決心したように俺は立ち上がり、小屋の扉を開けた。
 


 


 

 






「また来てますよ。例の懸賞金目当ての───」
「とりあえず通せ」
「はあ。でもまた虹口あたりの住人が装ってきてるんじゃないですかね」
「我々が探すのはこの名簿の、ここから上の人間───」

 髭を貯えた副領事は、引き出しから一枚の紙を出すと、ある箇所をくるりと指でなぞった。

 上海に在留する日本人は、この地の属する中国に対し条約上治外法権を享有している。
 その関係上、他の列強各国の外国人と同様の立場にあった。従って上海駐在総領事の監督と保護を受ける立場にある。
 総領事は在留規則、警察反処罰令、その他の各種営業取締規則等の諸法規を公布しながら、行政上の取締を行い、一方警察官を擁し在留日本人の直接保護にもあたる。
 また、上海には在留日本人の生命財産保護と権益擁護、租界防衛を目的として日本海軍特別陸戦隊が常駐している。
 上海日本総領事館は、先日の日本郵船海難事故による遭難者を救出・保護した者に懸賞金を出すことになった。
 日本人の保護、もっともな仕事だ。
 とはいえ結論からいうと、実際に懸賞金が一度として支払われた事が無い。
 事故直後、この通達を発布してからほんの数日で多くの日本人が保護されてきた。ほとんど身寄りのない初めてこの上海に渡ってきた一般人であり、領事館のいう日本人とは5%ほどのエリート層と呼ばれる商社・銀行支店長、高級官吏、会社経営者などとその家族指していたためである。
 そしてその目的は、たった一人の人物を探し出すためだった。
 松山家個人による資金の供出。
 息子の光が巻き込まれたらしいと、松山の当主が沈痛な面持ちでやってきて「日本総領事館」として息子探しに手を貸して欲しいと申し入れたのは先日のことだ。
 当然ながら特定の人間の為に権力を行使することは、建前上できないことになっている。
 しかしこの上海で一番力を持っているのはなんといっても金、なのである。
 
「で、おまえの保護している日本人は、なんと言う名だ?」

 メガネの職員に連れられてきた中国人の姿をみるなり、眉を顰めた副領事は、露骨に鼻に手をあてながらも事務的に聴取をはじめた。
 やってきた男は、日本語があまりよくわからないらしかったが、名前をきかれているくらいはわかったらしい。
 ごそごそと、汚れてほつれたズボンの尻から懐中時計を取り出すと、そこに彫られた名前を垢にまみれた指先で指し示した。

「なまえ、これ」

 横から覗き込んでいた職員が、はっと息を飲んだ。
 男の手の中で鈍く光るのはまぎれもない純金の輝き。
 探しているかの名前。

「これは───」
「ああ・・・。これこそホンモノだな・・・。H.MATSUYAMA。ふむ。松山光だな。この細工にこの重さ。まさかこの男が手にいれることなどできない代物だからな。で、今、この人はどこにおるのだ?」

 中国語で職員が細かいことを聴取し、話を副領事に伝える。
 自分がその少年を助けたのは上海からかなり南にある、自分の住む漁村の浜辺だという。
 15才くらいの少年。特徴は松山の父が伝えたものとほぼ一致している。
 彼はいま、自分の家で寝ているとのこと。傷はかなり深いらしいが、とりあえず早くつたえに来たと主張し、約束の懸賞金を半分欲しいといっている。
 それをもらったら、彼をここまで連れてくるとこの男は取引めいたことまで口にした。つまり、金をよこさないと松山光のいる場所も教えないということだ。

「なんだと?」
「どうしますか。まず松山家に連絡しましょうか」
「いや・・・・待て。とりあえず金は渡そう」
「いいんですか?こんなヤツのいうことに軽々と従って、我々をバカにしているにも程が有る!」
「考えてみろ。金は松山が出すんだ。我々は不良中国人にひどい扱いを受けていた息子を救出したうえで引き渡せば・・・・」
「・・・・なるほど」
「あとをつけ、場所さえ突き詰めたらこの男には用はない。懸賞金はこいつが全て受け取ったが、どこにあるかも我々にはみつけることができなかった」

 5時間後、金を手に入れ上海の街で身繕いをし酒を飲んでいた男がようやく帰路についた。
 その後ろには欲に目が無い副領事の手配した男が数人。
 場所を突き止め次第、男は消し、光を救出する手筈になっている。あくまでも「上海総領事館」としての仕事では無く「副領事」の個人的な手配によって。
 もしも松山家に先に知られてしまっては元も子もない。証拠となる金の懐中時計は、副領事のマホガニー製の大きな机の引き出しにしまわれた。
 毎日確認にやってくる松山の秘書への対応も、普段通りにやり過ごせた筈だ。
 後は明日にでも助けた光を上海の手前で自分の車へ乗せかえ、旧英国租界の松山邸へ送り届ければいい。
 謝礼金を手に入れることはもちろんだが、松山への貸しができ自分の次期領事、あるいは総領事への昇格にも手助けをしてもらえるだろう。
 
 だが、その男達が副領事の元へ戻る事はなかった。
 海岸線の波間に、浮かんだ死体は全て心臓を1発で打ち抜かれていた。ある独特の印を残して。



 
 

つづく
 


 ようやっと続き───でも、余計な伏線ばっかりでつまんないっすね;;うう、早くこの部分終わらすか飛ばしたい・・・。 (02.04.14)