日本の定期航路の客船が難波したという情報は、上海にもすぐに伝えられた。
あるはずのない衝突事故らしいという事実に、上海の人々の間では様々な憶測が飛び交った。
日本人の間では『中国による排日報復行動では?』『いや、列強各国による宣戦布告では』。
米英をはじめとする租界の構成者達もほぼ同じだったが『これにより、日本人が少し大人しくなればいいが』というのが本心。
中国人はだんまりを決め込んでいた。むしろ、興味すらなかったのかもしれない。
報を受けた日本領事館は、先程上海に駐留しはじめた日本海軍陸戦隊の協力を仰ぎ人員の救出にあたった。
衝突による爆発をおこした船の損傷は激しく、事故直後、幸いに脱出可能だった乗客を除けば船に残された乗客の生存者はわずかであった。しかし、彼等も火傷や裂傷からは免れなかった。
一番被害の大きかったのは、直撃を受けた船体中央部分と最下層の3等客室から荷を積んだ船倉だった。
爆発により引き起こった火事は、ほぼそこにあった荷を焼いてしまった。
一等船室の客は、優先的に避難用ボートで脱出したが、殆どの客は海にほうり出された模様である。運がよければ沿岸に流れ着いているかもしれない───。
上海に帰港した救出要員の言葉は、家族等の安否を気づかう人々に冷たく響いた。
松山家でも、息子の乗っているはずの船が入港しない事に、大きな動揺が走りすぐに情報が集められた。
この地で貿易商を営むこの家の秘書長でもある男が、邸宅の廊下を小走りに奥にある部屋へと向かっていた。手には数枚の紙が握られていた。
重厚な彫刻の施された木の扉をノックする。
中から低い声が聞こえ、彼は室内へと静かに足を踏み入れた。
「大人・・・。埠頭にいって参りました」
「おお、光は。光はどうした!」
「それがお顔がなく・・・・・・・」
「・・・怪我人の中にもいなかったのか?」
「はい・・・。ほとんど一等に乗られていた方々は無事に上海に上陸なさっておられたのですが・・・。乗客の中には、漂流して他の船に助けられた者もおるようです。こちらは現在他の者が確認しているところでございます。こちらは乗客名簿の写しと現在わかっている救助された一等船室の乗客名簿です」
「なんと・・・。」
この家の主人である、光の父は大きく息を吐いた。
何度めくってみても、救助された人々の中には愛する息子の名前はない。
しかし、乗客名簿には彼がその船にのっていたことを示す、「松山光」の文字があるのだ。
こんなことならば、息子を呼び寄せなければよかった───そう思ってももはや後の祭りであるのはわかっているものの、その思いが頭を支配する。
妻と娘は、報を聞いて部屋に籠ったままだ。
しかし、まだ助かった者もでてきているということでないか。息子の姿を確認できるまでは、悲観するのはまだ早い。自分がしっかりしなければ。
ようやく彼は顔を上げた。
それを見た秘書長は、少し声を落としはなしはじめた。
「実は大人、長崎丸にぶつかった船というのが───」
「───何だと?まさか・・・・。以前よりそのような話はあったが・・・」
「我が社には直接関係がないとはいえ、やはりお耳にいれておいたほうがよろしいかと」
「たまたま、それに光が乗り合わせてしまったということか・・・。しかし、今は光の安否だ。なんとしてでも捜せ。日本領事館はアテにはならんが、筋は通さんとな。仕方ない、出かけるか」
「私も参ります」
「いや、ここに残っていてくれ。もしかすると連絡があるかもしれん」
「かしこまりました」
息苦しくなって、急に身体が重くなった。
慌ててもがきながら手の下にある砂をかく。ずるずると這うように身体を覆うものから逃げる。
───ここは・・・浜?身体に纏わりついているのは水だ・・・。
うっすらと開いた目には、一面の砂しか見えない。
頭が持ち上がらない。
手も、足も、鉛のようで動かす事ももうできない。
遠くで声がする。何か叫んでいる。なにか・・・なにをいっているのか・・・・わからない。
人影が近寄ってくる─────────。
目がさめると、見なれぬ天井。薄汚れた壁・・・。知らない匂い・・・。
ここは何処だ?
身体を起こそうとして、激痛に顔を顰める。
そろそろと腕を上げて、顔に近付けてみた。手は動くようだ。
視界に入った自分の腕は真黒に汚れ、無数の切り傷が一面についていた。
どうなっているんだ?なんで俺は怪我しているんだろう。
不意に足音がして、横に人の気配を感じる。
恐る恐る、そちらを見上げると、知らない男の顔が見下ろしていた。
部屋の中は薄暗く、男の顔もよくは見えない。穴の開いたシャツをきているのは、わかった。
・・・誰だ?
「なまえは?」
男が喋った。
変な発音でききとりにくいが、名前を尋ねているのか?
「・・・何?」
「なまえ」
なんで名前なんかきくんだ?そもそも何で俺はここにいるんだ。
男は何度も同じ言葉をくり返す。
名前か。しょうがないなぁ・・・・・・・名前?
名前って、俺の名前は・・・・・・・・・・・わからない?なんで?俺の名前だぞ?
考えれば考える程、頭の奥からズキズキとした痛みが走る。
眉間に皺をよせる。冷や汗が流れる。それでもなお・・・・・思い出せない。
「これ、なまえ、ちがうか」
男が目の前に金の懐中時計を垂らした。
受け取り、裏側に刻印された字をおっていく。綺麗に彫られた植物の柄に縁取られた円形の中心に、アルファベットでH.MATSUYAMAとある。
そうだ。まつやま。これは俺の名前だ・・・と思う。でもその後のHは・・・・やはりわからない。
「まつやま、まつやまです」
「まつやま」
またしても怪しい発音で繰り替えした男は、俺の手の中にあった時計を取り上げた。
慌てて取り戻そうと身体を起こそうとしたが、男はスタスタとそこをでていってしまった。その後がちゃがちゃと大きな音がして、静かになった。
そもそも、まったく人などいなかったかのように、静寂が空間を支配する。
耳を澄ますと、波の音は遠く聞こえた。
自分の置かれている状況がいまだ把握できないでいる。
俺はまつやま。それは間違い無い。
ずっとそう呼ばれてきた。ずっと・・・・・。誰によばれてきたんだ?思い出せない。
この言葉は日本語。さっきのアルファベットは英語。たぶん、男の発音は中国語。それがわかるのになんで自分のことがわからないんだろう!!
どうして此処にいるんだろう!!
自分は一体誰なんだ・・・。そうだ、それがわからないんだ・・・・・。
胃のほうからもやもやとした何かが胸をいっぱいにし、喉をつまらす。
吐き気にも似た、感覚に息苦しくなる。
必死の思いでその状態から脱しようと、大声で叫んだ。
喉が、肋が、声をだすことで震える体中が痛い。
だがそれよりも、心がとても痛い。
しかし、その日、部屋には誰もくることはなかった。