───まだ鳴り続けている。
心地よい微睡みの中、ヒステリックに電話ベルは鳴り続けている。
窓の外はやっと明るくなりはじめたばかり。街が色を取り戻す前の深い青が広がってゆく。カーテンの隙間からうっすらと朝の気配が忍び込む。
ついさっき、やっと寝付いたばかりの松山にはまだ夜中といっていい時間だった。
───うるせえ!!!!!!
留守電にするのを忘れていた。枕に額を押し付けたまま、半夢遊病者のように、もそもそと受話器をとった。
勘に触るヒステリックな音がようやく止る。
「・・・だれ・・・」
「俺」
怒っているのか事務的で感情のない声が耳に響く。
いい声。好き。高くも無く低すぎもしない。
寝ぼけた頭に電話の相手の顔が浮かぶ。だいたいこんな時間に不躾な電話をしてくるヤツはあまりいない。
「・・・若島津・・・」
頭はなんとか作動しはじめるが、舌がうまく回ってくれないから、なんだよ?は言葉にならない。薄目を無理矢理あけて時計を見ると4:50!!
最低。
「日向さんはそこにいるのか?」
「・・・いや・・・」
さっき帰ったばかりだよ、と頭の中では言っている。もどかしい。
「これから行く」
松山の声を待つでもなく、電話は乱暴に切られてしまった。
・・・今日はいらねえのに。受話器を放り投げる。
恋人が帰ったばかりのこのベッドに今は、おまえなんていらないのにと、切れてしまった受話器の向こうに思ったが、通じるはずもなくただ無機質な機械音がするばかりだ。
おなかいっぱい。セックスは間に合ってる。
帰る前に日向が沢山くれたんだから。
松山は、面倒臭いなと呟くと、寝返りをうち大欠伸をした。
そのまま受話器のことなどとうに忘れ、もぞもぞとシーツを引っ張りあげると、そのまま泥のような眠りに簡単に落ちていってしまう。
色々考えなきゃいけないような気にもなるんだけど。
緩やかな松山の寝息と共に、部屋は何も無かったような静けさを取り戻す。
───今はおなかいっぱい。日向がたくさんくれたから。
外では夏の虫が静かに鳴いていた。
「お腹が空いた時は、ステーキが食べたくても、目の前のラヴィオリで我慢しなさい」
そういったのは松山自身。目の前には素頓狂な顔をした日向小次郎がいた。
「・・?何だそれ」
「昔の映画でイタリア男がアメリカ女にいってた台詞」
一体何の話だと日向が頭を抱えてしまうのも無理は無い。
あれは数カ月も前のこと。
松山に自分以外に何人もの愛人がいると知った日向が、恋人の当然の権利として詰め寄った際に、その事実をちらりとも隠そうとしない松山がいった言葉がそれだったのだから。
「何なんだよ!!」
顔には笑顔すら浮かべた松山は、耳まで真っ赤にして怒る日向の頬を両手で挟み込む。
「俺はいつでもお腹が空いてるの」
皆目見当が付かないといった風の日向をみて、可笑しそうに松山は笑った。
「いつだって日向がいいけどさ、日向が四六時中一緒にいて、好きなときに好きなだけしてくれるとは限らねえじゃん?」
その真意をはかりかね、日向は恋人の瞳を真剣に探る。
「セックスはさ、メシ食ったり喉が乾いて水飲んだりするのとおんなじ。欠かさず必要なの」
違うか?と松山は日向の頬を撫でる。
日向は心の底から驚いてしまう。目の前のこいつはこんなことを本気で言ってるのだ。当の松山といえば、目を白黒させている自分をみてケタケタと笑っている。
「日向が一番大好きだけど、俺は大食いなんだよ」
つまり、この天使の様に笑う悪魔のような恋人は、始終こうして側にいない限り、自分は誰と何をしているかわからないと言ってるのだ。とんでもない!!!
「俺だけじゃ足りねえの?」
「うーん、だって無理じゃん。部屋で子猫飼ってるみたいに、食事させに戻んなきゃなんねーの。だから、留守中のペットの面倒は誰かにみてもらえばいいわけじゃん」
絶句。
日向は既に怒りを通り越して呆れてしまう。
愛や恋の話をしていると思っていたのに、こいつにとっては猫のえさの話になっている。
自分がそれを我慢できると思っているのだろうか。
「例えば俺が、松山のいねえときに、他の誰かと浮気しても平気なわけか?」
「浮気?」
今度は松山の方が驚いている。
松山は日向以外の人間とセックスすることを浮気とは考えていなかったのだ。ああ、だから日向そんなに怒ってんのかと、ようやく日向の怒りの意味を理解する。
そのことに再び日向が驚く番だ。
「一体何を心配してんだよ?日向は俺にベタ惚れだし、俺は日向に夢中だし」
松山は無言で自分を見つめる日向を、拗ねた顔で見上げる。
日向はもうどう言っていいのやら、分からなくなってしまっていた。
自分の恋人はセックスを少しも、自分だけに与える特別なモノとは考えていないのだから。
思わず天を仰ぐ。神様、俺の恋人はどこかが壊れています。
「愛あるセックスが一番いいに決まってるけどさ、おなかが空いてる時は贅沢いわねえんだよ。とりあえずお腹一杯になればなんでもいいんだよ」
何をいっても無駄なんだと気付いてしまう自分が悲しい。嫌ならサヨナラ。それが俺なんだからと、残酷な事実をあっけらかんという松山を恨めしそうにみつめ、日向は深く溜息をつくと諦めたように松山を抱き締めた。
「俺が一番?」
「うん」
「・・・本当に?」
「うんっ!!」
・・・それが唯一の救いだ。そのことだけに満足していかなければならないのだろうか。松山とつきあっていく為には・・・。
たぶんこいつとつき合うほかの何人かの中には、本気で松山を愛している者もいるはずだ。
だけど松山はその誰かさんを主人の留守中に餌をくれる隣人くらいにしかみていないのだ。
そいつの気持ちを考えれば、自分は幸せなのかもしれない。そう思うしかない。自分の言葉では絶対に変わらない。
日向が嫌ならちゃんとわかんねーようにするよ、と松山は日向を愛おしそうに覗き込む。
日向は今までの人生の中でこんなに大きく溜息をついたことはないというくらい、大きく切ない溜息をついた。
恋人は腕の中で笑っている。
───それからだ。
日向がどうしても20時間以上離ればなれにならなければいけないような時には、他の人間と会う気力すら無くなるような回数をこなしてから出ていくようになったのは。
松山の言葉を借りれば『おなかいっぱい』にしていくわけだ。
当然、松山には大歓迎のことだったが、その後でかけていかなければならない日向には、流石にしんどい作業であるといえた。
「いってらっしゃい」が恐かったし、「おかえりなさい」が恐かった。
こんなに好きじゃなきゃ耐えられない。
日向にとってこの恋は努力と既に同義語だった。
全ての人もそうなのかもしれないけれど。
ベッドが大きく軋む。
───誰かがベッドの脇に座った振動で松山はまた心地よい眠りをさまたげられる。
思いきり不機嫌そうな顔で見上げると、若島津がベッドに腰掛けうっとおしそうにネクタイを緩めている姿がそこにあった。
傍らにはこの部屋の合鍵。
大きな背中。
大いに不満をあらわし、わざと大きく寝返りを打ち背中を向ける。
そんな松山を若島津はチラリとも気にもせず、ネクタイと仕立てのよさそうなジャケットを椅子に放り投げた。
それだけのわずかな時間にも、松山はとろとろと緩やかな微睡みに引き込まれてしまう。早くもすうすうと寝息をたてはじめていた松山は、乱暴に髪を梳かれ、無理矢理眠りの縁から呼び戻された。
文句を言う間もなく、後ろから抱き締められる。
馴染み深い手がパジャマ代わりのTシャツを捲くりあげ、さも当然の様に体をなぞりはじめている。
ああ、邪魔臭い。お願いだから寝かせてくれったら。
「・・・眠いよ」
おなかはいっぱいなんだ。ただ眠りたいだけ。
松山は眉をしかめ、面倒臭そうに身を捩る。
そんな松山の抵抗など一切意に介さず、若島津の舌はうなじを這い回っていく。
目一杯嫌な顔をしてみせても、若島津にはてんで通じず、松山はいやいやと首を振り熱い唇を振払おうともがく。
「も、マジに寝かせてくれよぉ。さっき寝たばっかなんだから」
「寝てればいいだろ。勝手に」
寝てられるかよ、バカ。なんて我侭なヤツ。
そう思いながらも耳を口に含まれ、くちゃくちゃと音をたてられると心底ぞくぞくして笑い出してしまうのだ。
相変わらず、この大きな手は自分の体をよく知っていて的をはずさない。最高に気持ちいい。
このまま寝かせてくれるならけして嫌いな状況ではないのだけれど。
この男が自分が眠るまでの心地よさだけで許してくれるわけは無い。
実際、若島津の手はすでに下へと伸びている。
胸を泳ぐ指はまるで生き物みたいに居場所を探す。
押し付けられた背中に感じる若島津が松山の温度をあげていき、耳の奥が熱くなりはじめる。
まどろみと快感で、背を向けたままだんだん抵抗の仕方を忘れてゆく。
「・・・ムカツク」
そういいながら松山はを口をとがらせ若島津の方へ向き直り、両耳を掴んで顔をあげさせる。
目を擦りながら今日はじめてちゃんとみた若島津の顔は、朝までどこかで飲んでいたのか、うっすらと無精髭伸び始めている。
「・・・むかつく」
今度は若島津がそう呟くと、頭の芯がくらくらするくらいの噛み付くようなキスをする。互いの舌がからみあって、音をたてる。
まるで口の中を犯されているようだ。
松山は睡魔に頭がぼやけているのが、それともそれが快感のせいなのかもうよくわからなくなっていた。
若島津のキスは体中に散っていく。全然優しく無いキス。
固いギザギザした、でも火みたいに熱いキス。されたところが火傷しそうになる。
何度も何度も松山の口から溜息とも、吐息ともとれる声が漏れていく。
先へ進むにつれ、体をだだっ子のように捩るしか無い。
完全に松山を捕まえてしまった若島津は、そこに何があるかを既に十分知っていたので、松山の望む方へと流れに巧くのっていく術を心得ていた。二人は蛇のようにからみ合う。
いつも対等だった。
いつからこんなふうになったかは二人のどちらもよくは覚えていなかったけれど。
松山は若島津を愛してはいなかったし。
しかしお互いに相手を最高のセックスの相手として認めていたので、互いに本気の恋人が入れ代わってもこうして続いてきたのだ。
松山の声が高まる。
他の誰にはばかることなくあからさまな声を上げる。
いじわるにもほどがある。松山は思わずずり上がる。
何の用意も前ぶれも無く若島津が侵入してきたからだ。
全然優しく無い。
乱暴で激しい。
愛撫なんかじゃななくて暴力だ。
だけど痛いのが嫌いじゃ無い自分が可笑しい。実際こんなにひどくされて震えるほど、感じてる自分が可笑しくて笑い出してしまいそうだ。
「・・・何が可笑しいんだよ」
知らず、顔が本当に笑っていたのだろう。松山の足を抱えたままの若島津が顔を覗き込む。
その姿がまた可笑しくて、ひきつたような声をだして笑ってしまう。その細やかな振動がよけいに松山を狂わせる。
───不意に電話のベルが鳴り響いた。
急に現実に引き戻され一瞬顔を見合わせるが、当然若島津はやめようとはしないし、松山もでるつもりは毛頭無い。
若島津が汗ばむ松山の自分よりも小柄な体をいとも簡単に軽々とうつ伏せにすると、ベッドのスプリングが音をたてて軋んだ。
背中に若島津の逞しい胸を感じて、松山は期待に身を震わせる。
若島津はそのまま手を伸ばし、床におちていたコードレスの受話器を松山の耳に押し付ける。
嫌な予感がした。
「でろよ」
冗談!!!
松山がイヤと言う前に、若島津は通話をオンにしてしまう。
「───あ、わりい。寝てたか?俺」
プラットホームの喧噪の中、聞こえてきたのはさっきまで隣にいた愛しい恋人の声だ。
「・・・ひゅうが・・」
後ろから責め続ける若島津の思惑がわかる。
ただ単に松山を困らせたいのだ。受話器をもって歯をくいしばる松山がみたいだけ。
そう気付いたとたんに、余計に高まってしまう自分を感じる。
一層若島津の動きが激しくなり、喉がつまる。思わず指を噛む。
「いまよ、東京駅。香さんが遅れてきてさ、新幹線遅らせたんだよ・・・・・あー、きいてる?」
「・・・うん・・」
きいてはいるけど、声が出せないだけ。死にそうだ。
あんまりベッドが凄い音をたてているから聞かれないかとヒヤヒヤする。
若島津の嬉しそうな顔が見えるようだ。
松山は枕に顔を押し付けて、一番の恋人に悟られぬ様にと嗚咽をこらえる。
シーツを握りしめた指の節が白くなっている。
耳が熱い。よく聴こえない。
「・・・で時間少しあいちゃってよ・・・暇だから電話した」
すこしはにかんだ日向の顔が浮かぶ。
大事な大好きな恋人。少しでも自分の声がききたくて電話してくる日向を心から愛おしく思い、直接体に受けている刺激とは別の甘さの快感が背筋に広がる。
若島津はそれが見えるかのように、背筋に舌を走らせ、松山の背中を魚の様に反り返らせる。
「で、帰りなんだけどよ、今日中に帰れれば帰るけど、明日になっちまうかも」
「・・・ひゅう・・がぁ・・」
「うん?」
若島津の動きが次第に早まり、人の体同志がたてている音とはおもえないほど間抜けな音をたてる。
枕を噛んで全てを耐える。
震えが止らない。耳元には低い恋人の声。息遣い。
まるで日向に抱かれているようだと、そう思った瞬間にイキそうになる。叫び出しそうになる。
目の前が白くなる。
「・・・早く!」
気が狂いそうだ。
愛してる。愛してる。
日向とのさっきまでの時間と快感が体中を駆け巡る。
「・・早く!・・早く帰って!」
「あ、ああ。できるだけ今日中に帰る」
訝しげに思いながらも、突然そんなことを言われた日向の声には嬉しさが隠せない。
松山は既に半狂乱で、自覚のない涙が目尻を流れ落ちていく。
鳥肌が立ち、全身の毛が逆立つ。
声を堪えられそうに無いのをみてとった若島津が、松山の口を自分の手でふさぎ耳を噛む。大きな流れの中で溺れていた松山は、差し伸べられた手にすがりつく。
若島津の手の中の松山の声は、悲鳴に近かった。
「じゃあ、そろそろ切るな。起こして悪かったな」
「・・・うん・・・」
必死の思いで絞り出した声。若島津の手に歯をたてる。
じゃあな、と遠くで声がする。もう少し。もう少し。
松山は死にそうな思いで、ぷつっと微かな音で電話が切れたと同時に若島津を振り返る。
気狂いの様にむしゃぶりつき、ねだる。
口の中は若島津の血の味がした。
若島津は泣きじゃくっている松山を大事そうに抱えなおすと、もう一度快感の頂上へと導いていく。
「ムカツク・・・ほんとむかつく!!!」
悲しみや怒りの涙とは違う快感の涙に潤んだ目で、若島津を睨む松山は熱にうかされたようにを自分を求めている。
若島津は満足そうにそれを見据えると、あとはそのままいつものあの狂おしい時に向かってゆく。
衣擦れとスプリングの軋み、そして泣き声ともつかない松山の声。
───こんな時を知らぬやつは人生の3分の1損してる。
若島津が誰かにそう話していたのは、クラブの片隅。
随分と前の話だった。
////////////つづく////////////////