俺のうちの猫の額のように狭いベランダの片隅に、サボテンの鉢がひっそりと置いてある。
一人暮らしを始めたばかりのころに息子を心配がてら部屋を訪れた母親が、グリーンの一つでも、と勝手に買っておいていったサボテンだ。
サボテンなら水を忘れても育つから、ずぼらな光でもなんとかなるでしょう―――そうかもしれない。
当初部屋の中に置いてあったその鉢は、なにかの拍子にベランダに出したのだろうか。いつのまにかずっとベランダの片隅に置き去りで。
当然水なんてやってない。俺自身もその存在は忘れていた。
いや、視界には入るところにあるのだけれど、もはやベランダの風景に溶け込んでしまって、今さら手入れをしようとかそういうことすらも思い付かなくなっている。
でもサボテンはちゃんと生きている。
「俺を部屋に呼べよ」
日向がしつこくそういうようになったのは、数カ月前くらいからで。
別に日向とはそんなに仲良くないし。なんで俺の家に呼んでやらなくちゃならんのだ。
確かに高校選抜やワールドユースやらそういった代表メンバーでは一緒になったし、いわゆる食堂の借り時代からの顔見知りではあるけれど。
家へ呼ぶ程の仲ではないと思っている。
たまたま所属するチームの関係で、半年前俺は東京にでてきて一人暮らしをするようになった。
反町とはなんとなくお互いウマがあって、こっちにきてからはなにかと頼りにしてるせいか、東邦卒業組とはなにかと顔をあわす機会は絶対的に増えているのだけれど、どうも日向とは微妙な関係なのだ。
合宿なんかでは同じ部屋になったこともあったけど、いつも喧嘩ばかりだったし、俺もつっかかるつもりはないんだけど日向のいうことにはなぜか反応してしまう。
それに対して、ヤツも応戦してくるからどうしても結果は最悪。
サッカー選手としては、チームメイトとしては、最高なんだけどな。ヤツのプレイスタイルとか、サッカーへの情熱は好きだし共感してるんだ。
だが、友人・・・としてはどうなんだろう。
きっと日向も俺にはそんなに興味はないはず。
なのに、家にきたいとはなんだ?
反町と一緒に若島津が部屋を訪れたことはある。日向も付いてくるのかと思ったけどこなかった。
そのあとで日向と顔をあわせた折、やつはこうのたまった。
「どうして松山は、俺だけ部屋に呼ばないんだ」
別に来るな!とはいってない。だけどこちらからあえて呼ばないだけだ。
機会があるのにこなかったんだから、それはそれでいいじゃないか。過ぎたことを言わないで欲しい。
しかもたいしたことじゃねえだろう。仲間はずれにされたと駄々をこねるガキじゃあるまいし。
そして学習機能がついていないのか、日向はしつこく同じ台詞をくり返す。
「俺を部屋に呼べよ」
くるならくればいい。きた客を追い返すような真似はたぶんしない。
一応は義をもって接する男だ。
でもここで「くれば」といったところで、どうなんだ?ほんとにくるのか?なんでこいつは俺のウチにきたがるんだ?
自分でもよくわからないけど、社交辞令の「じゃあ今度、よかったら」なんつーのも日向には言えない気がする。
だから俺は返事をしない。
バカのように同じ台詞と無言の返事がくり返される。
たまたま人に紹介されて初めていったスポーツクラブのプールサイドで日向に会った。
いつも日向に会う時は、必ず反町や若島津が一緒だったのだが、日向もこちらもお互い一人きりで対するのは久しぶりだ。
「よお」
「ああ」
なんとなく声を交わしたものの、その先は続かない。
つくづく俺達って合わないんだと思う。
昔はその間に耐えられなくてどちらからともなく、罵詈雑言が飛び出して喧嘩になっていたのだ。
さすがに大人になった俺達はそういう無駄な会話をすることは少なくなり、こういった無言状態になることのほうが多くなっている気がする。
たまにする数少ない会話がいつもの「呼べ」じゃあ、俺は口をきくのもめんどくさくなるってもんだ。
でもプールサイドに突っ立って、互いに顔見合わせてるのも甚だ居心地が悪い。
珍しく俺の方から、なんとなく聞かれてもいないのに説明がましくここにいる理由をいってみたり。
「前からちょっと泳ぎてえって思ってたんだけど、ここのプールってあんま人いねえってきいてたから」
「俺がいてがっかりしたか」
「・・・そういう風にはいってねえだろ」
珍しく日向が揚げ足を取ってくる。
最近はそういうのもないよなぁとか、ふと気が付いた。
「泳げるんだな、意外と」
「どういう意味だよ」
「いや、なんとなく松山ってカナヅチって思ってた。綺麗なフォームじゃねえか」
「・・・・・・」
なんと答えていいのかよくわからない。
前段のカナヅチっていうのについては、勝手に思い込まないで欲しいと少々むかつくものの、後段の褒め言葉?はどうするよ。
っていうより、俺が泳いでるのいつからこいつはみてたのか?
「日向は泳がないのかよ」
30分くらいまえからこのプールで泳いでいたのは俺一人だった。
がしがし泳ぎこんでいたので、誰かきたのもわからなかったけど。
今、水からあがって少し休もうとしたら、目の前に日向がいたのだ。
日向も水着姿だけど、その体は濡れていない。
「これからだ」
「ふーん、じゃあ俺もうあがるから。じゃあな」
ほんとはウォームルームで休んでからもうひと泳ぎしようかとも思ってたけど、プラン変更だ。
サウナに入って汗を流してくることにしよう。そもそも俺がここにきたのも、リフレッシュのためだ。無駄に不毛な時間を日向と一緒にいることでつくりたくはない。
日向はやっぱり苦手だ―――。
俺の濡れた肩を急にぐっと掴まれて確信する。
「・・・なんだよ」
「・・・なんでもねえ」
俺がぺたぺたとタイルの上を歩く音に重なるように、背後で大きな水音がした。
視界の端にとらえると、サッカーのプレイスタイルそのまんまの激しさで日向の泳ぐ姿が見えた。
日向の体が大きな魚のように見えかくれする。白い水しぶきが水面を彩る。
ちぇっ。バタフライかよ。どうせ俺はクロールがせいいっぱいだよ。
そのあと俺は結構ゆっくりサウナに入ってジャグジーに浸かっていたのだが、日向とすれ違うことはなかった。
なんとなく、遅れてはいってくるのかなぁなんて思っていたもんだから、ちょっと意外。
別に待っていたわけじゃなかったけど。あいつがきたら直ぐに出るつもりだったんだから。
でも―――ふと気になってプールをガラス越しに覗いたが、そこにもヤツの姿はなく。
だからどうだっていうんだ。なにやってんだ俺。
ウチに帰ってばたんと床に横になった。
水に浸かると全身が重くなったように疲れる。
これはボール一日中蹴ってた時の疲れとまた違う。鉛のように重くなった腕と足を投げ出した。
そうだ。水着干さなきゃ―――。
のろのろと立ち上がってベランダの物干に洗った水着を引っ掛けた。
風が急に強くなってきたので、端を留めようとした拍子に手元が揺れて洗濯鋏が下に転がってしまった。
転がった先にはそういえば久しぶりに気が付いたサボテンの鉢。
洗濯鋏を拾い上げながら、緑色のサボテンに茶色い粒みたいのが付いているのに気付く。
なんだこれ。ゴミ?
部屋の中から携帯電話の着信音が鳴り響き、結局俺はそれをほうっておいたままベランダからあがった。
そんなもんだ。
つづく