「君は、どこからきなすった?」
「え?」
長崎港を定時に出航してから1時間。
まだ、甲板からは九州の山陰が霞んで見える。
上海と日本を結ぶ、日本郵船の定期行路には、最近はやりの上海への旅行客や、むこうで一旗揚げようと期待に胸を膨らませているような人間、そしてアジア観光の途中なのかブルジョアの外国人の姿も多く見られた。
この長崎丸が就航してからは、わずか26時間の船旅で、異国の地に降り立つ事ができるようになった。
日本人は、東洋一の大都会として君臨する上海にいろいろな想いを抱きながら向かうのだ。
甲板の手すりをぐっと掴んで、遠くなる日本を眺めていた俺は、旅行客でも、一旗揚げようというのでもなくて。
ただただ、ぼんやりと海を眺めている。
きっとその姿は、浮いて見えるのかもしれない。
それでも裕福そうな初老の紳士の問いかけは、無遠慮な好奇心というのではなく、単なる同乗した旅の道連れの社交辞令としての物言いだ。
「まだ学生さんのようだがね」
「はい。先日までは札幌の学校にいました。」
「札幌から?そうすると長崎までは陸路で?」
「ええ。当分日本には帰れなくなりそうなんで、はじめて日本を縦断しましたよ。距離的には上海以上の距離をもう移動してきてるんですよね。」
苦笑混じりに返事をする。
そう、これがいよいよ最後の行程。
言葉通り、向こうについてしまうと暫くは日本には帰ってくる事が無いだろう。
我が家の拠点は上海に、家族も、財産もすべて移ってしまっている。
日本に残されたのは、取引上で必要な拠点と、家人のすむことのない家と、俺の大好きな広大な牧場と・・・。
「ひとりで・・・かい?」
「そうです」
ふむ、と紳士は首を傾げながら片手で弄っていたタバコを口元にもっていく。
そうして俺を一瞥すると、また、ふむ、と頷いた。
「なるほど。着ているものは、学生さんにしてはいい仕立てだ。いま、なぜ君が上海にわたるのか考えてみよう」
彼が疑問を持つのも不思議では無い。なぜなら今自分達がここにいるのは、この長崎丸でも限られた一等の客の為の甲板だからだ。
好奇心だけであがってこられるような場所ではない。否、間違って入ってきても周りの視線に耐えられなくなって、すぐさま踵をかえすことになるだろう。
「あちらの学校に転入でもするのかね」
「あたらずとも遠からず、といったところですね。家族が上海で商いをしてまして、僕だけが日本に残って学んでいたんですけど、早く手伝えと、痺れをきらした父に早く上海に来るようにと最後通牒をだされてしまいました。」
「父上はかなり手広くやってらっしゃるのかい」
「ああ、そうだ。上海に滞在のおりはよかったらお寄りください。僕は松山光、と申します。」
「松山・・・といえば、あの!君は松山家の御子息なのか!」
すごいのは、手広く商売をし地盤を固めた父であって、自分は単なる血をひいているに過ぎない。
こういったやりとりで、名を出したとたんに自分が自分自身でなく、あくまでも「松山」の冠の下でしかみてもらなくなることに、いつも寂しくなる。
わざわざ北海道の全寮制の学校で学んでいたのも、そんな松山の名前に振り回されず、学業に集中するためだった。
まわりの友人達は、同じ仲間として共に学び、汗を流してくれる。
しかし、これからは上海で父の仕事を学びながら、その名に恥じぬ様、実力をつけていけばいい。
だからこそ、楽しかった友人との思い出を捨て、今まではみてみぬフリをしていた商売を本気で継ごうと決心が付いたのだ。
一緒にお茶でも、という紳士の誘いをむげに断るわけにもいかず、サロンで紳士の夫人と一緒にお茶を頂く。
彼等もまた、仕事で上海にいくところらしかった。
他愛のない会話。きっとこれからはこういう場面が増えていくのだろう。
でも人の話を聴くのは嫌じゃ無い。
いろいろなことがわかるから。
きっと、自分には向いている。
相槌をうちながら、なんだか漠然とそんな考えが頭に浮かんだが、すぐに消えた。
夕食を終え自分の客室に戻り、寝台に寝転びながら本を読んでいると、船が大きく揺らぎはじめた。
あまり揺れる事がない、ときいていたので、あまりの揺れに飛び起きる。
必死にバランスをとりながら、廊下に出ると、同じように他の客室のドアからも、不安げな乗客の顔が覗いていた。
すぐに制服を纏った航海士が揺れにもなれた足取りで、客室をまわりはじめる。
「ちょっと波が高いだけでございます。航海にはなんの支障もございませんので、皆様ゆっくりお休み下さい」
実は、船は苦手だ。
あまり乗る機会もなかったのだが、やはり以前、北海道の学校に入学する時に東京から乗った船が大きく揺れ、俺はしたたかに船酔いの餌食になった。
胃が腹の中でねじれているような不快感。止る事のない頭痛と吐き気。
なるべく船にのる時間を少なくするべく、東京や神戸からもでている上海航路に乗らずに、わざわざ長崎まで陸路で距離をかせいだというのに全くツイていない。
まだ、滅茶苦茶気持ち悪い、という状況ではないけれど、少し頭からは血が下がっているようだ。
俺の部屋にやってきた航海士が、俺の顔を覗き込みながら背中を摩ってくれた。
「大丈夫ですか?」
「・・・ちょ・・・ちょっと」
「もし吐きたくなっても吐かない方がいいですよ。余計に具合悪くなりますから。」
「ええっ・・・、そ、そうなんだ・・・・」
「ところで君はいくつ?」
「は?あ、15・・・・」
「じゃあ、大丈夫かな・・・」
その航海士は少し楽しそうに笑うと、ポケットから小さな小瓶を取り出した。
そして俺に握らせる。
「これはね、一番つらそうなお客さまに差し上げてる、一番の船酔い止めだよ。」
「あ、ありがとうございます」
そして彼は他の部屋へとまわっていった。
俺はドアを閉め、転げるように寝台に横になる。
だんだん頭痛はひどくなっていくばかりだ。
右手の中にある小瓶を眺める。これって薬なのかなぁ・・・。
蓋を開け、一気に喉へ流し込む。
「うえっ!!!これ酒じゃン!!!!」
か〜っと喉から胃にかけて熱くなる。
酒は初めてじゃ無いけど、これはかなりきっつい部類だ。
一気に熱が体中にまわり、頭もぼうっとしてくる。
これじゃあ、船酔いするより先に酒に酔っちまう・・・・・。
あ、だからコレ・・・・・・船酔い止めかよ・・・・・。
船が揺れているのか、カラダが揺れているのか最早わからなくなっていた。
いつのまにか、俺は眠りについていた。