船室の丸く小さく切り取られた窓から燦々と差し込む、明るい陽射しに覚醒を促された。
昨晩貰った小瓶のお陰で、夢見る事もなく、もちろん船酔いの吐き気に苦しむ事も無く一晩を過ごせたようだ。
しかし、微妙に頭痛が残っていた。そして喉の乾きも。
これはアルコール摂取によるものだろう。
「っつぅ・・・・・。まだ7時かぁ・・・。」
父に譲り受けた愛用の懐中時計を覗き込むと、朝を迎えたばかり。
身支度を整え、一等食堂へ向かった。
金さえ積めば、いくらでも豪華な旅をすることができるが、そこにはやはり目に見えない階層と差別が根底にある。
支配する者達の世界と、支配される者達の世界。
船の中はその差が歴然と現れていた。
この船の下層、ニ等船室は船室といいながらも何も無い桟敷があるだけで、壮絶な場所取りをして自分の場所を確保しなければならない。
そこでは行李を枕に雑魚寝、人がひしめきあっているはずだ。
これらの人々が降り立ち生活しようとしている上海は、いわゆる日本人居留地。
自分もこれから向かう、上海共同租界の中にあるとはいえ、全く世界を異にする場所であるらしい。
松山の家は、旧英租界の中に建っている。
最後に上海を訪れたのは、三年前のことだった。
しかし、同胞が多く住む虹口地区には未だ足を踏み入れた事がなかった。
そこを訪れる用事もなかったし、なんの興味もなかったせいなのだけれど。
着いたら、必ず見聞しよう。固く心に誓ってる。
自分のいる場所が、決して見下ろす場所、にならないように。
「こちらでお召し上がりにならないので?」
「ええ、パンと飲み物だけいただけませんか。外をみながら食べたいので」
「それでしたら、デッキのテーブルに御持ち致しましょう。」
「あの・・・いや・・・その・・・」
食堂のテーブルには真っ白なクロスがかけられ、その上には銀器が並んでいる。
昨晩はここで晩餐の席についたものの、どうしても居心地悪さは拭えない。
なにやら周りの澄ました人々の雰囲気にとけ込めないのだ。
あまり食欲もなかったのもあったため、弁当感覚で食事をもらえないか給仕係に頼んでみたのだが・・・。
てきぱきとセッティングされたデッキの席に案内され、仕方なく頭をぼりぼりと掻く。
「こーゆーつもりじゃなかったんだけど・・・。ま、いっか・・・」
ぼそりと、人に聞こえないようにつぶやく。
それでも、潮風が顔を撫で、陽射しが照らすこの席は気持ちがいい事は確かだ。
ほかの日本人は、一等食堂のあのテーブルを囲み、畏まって食事をとるほうがいいのか、周りには数組の白人がいるばかりだ。
ひとりでもそもそとパンを齧りはじめる。
ちょうど長崎と上海の中間あたりを航行しているぐらいか。目の前にはただ、青い海が広がるばかり。陸地は何処にも見えず、なんだか心細くもなってくる。
「あ〜、早くつかねえかな・・・」
波をずっと見ていると、せっかく治まっている船酔いが復活するかも!と、慌てて意識を他に飛ばした。
少し離れたテーブルの白人の家族の会話が耳に入ってくる。
在籍していた学校では、英語に力を入れていたため、それなりに会話は理解することができた。
どうやら日本で買い忘れたものがあったらしい。
『もう!あの人形、買いにいくっていってたのに!!パパのバカ!!』
娘らしき少女が悔しがっている。
女の子ってみんな同じだな、と自分の姉が同じように昔駄々をこねていたのを思い出し可笑しくなった。
そんな久しぶりにきいた家族のやりとりに、明るい気持ちになる。
結局朝食をすべて平らげてしまうと、おおきく伸びをした。
まだまだ時間はかなりある。どうやって過ごそうか・・・・。
そうだ、あの人に昨日のお礼にでもいこう。
操舵室に向かう途中で、ちょうど交代で向かうところだという、例の航海士に出会った。
昨晩は船酔いのせいであまり気がつかなかったけど、割と若い人だった。
「えっと、昨日は船酔い止め、アリガトウございました。」
「ああ、アレ、結構よくきいたでしょう?」
「ええ、かなり」
「僕のとっておきですからね」
お互いにくっくっくっと笑う。
これから時間潰しに悩んでいるところだというと、操舵室へ一緒にこないかと誘われた。
ありがたく覗かせてもらうことにした。
「へ〜、すごいな〜」
いろいろなメータやら機器を前にして、感嘆する。
これでこんなでっかい船を動かしてるのか。ホントに凄い。
航海士が海図を広げて、今、このへんだよ、と指差してくれる。
物珍しげにあちらこちらを眺めていると、急に、計器で運転監視をしていた別の航海士が口を開いた。
「んっ?何かこの船に接近中!」
「肉眼ではまだ確認できてません」
「他の船か?」
「真直ぐこちらに向かってます」
突如変わった空気に、慌てて部屋の隅に避難する。
そこにいた数人の航海士達が、緊張している俺に気付くと安心するように笑いかけてくれた。
「大丈夫。船だったら互いに避ければいいだけだから」
こくこくと頷き、役にたてるわけではないが前方に広がる海をじっと見つめる。
ぼんやりと遠くに船影が見えた。
その姿はどんどん大きくなってくる。向こうにもこちらの船影は見えている距離だろう。
しかし、素人の自分にもわかるくらい、真直ぐ、直線にこちらへ航行してくる。というかこれは・・・。
「・・・なんだ?なぜ避けないんだ?」
「はやく!面舵一杯だ!!」
目の前に広がる異常事態に、操舵室内は興奮状態に陥りはじめていた。
このままでは・・・・ぶつかる?
既に肉眼でもはっきりと見える対象物は、この船よりも一回り小さい貨物船のようではあるが、よくわからない。
俺は、咄嗟に外へ飛び出した。
階段をおりると甲板の手すりから身を乗り出し、船をじっと眺める。
どんどん、どんどん、近付いてくる。
外にでていた乗客の一部が、それに気付き叫び出した。
考えているよりも早いスピードで突進してきた船を避けるため、舵が大きく右に切られ、船も大きく揺れる。
しかし、それを讀んでいたかのように、謎の船は真横に突っ込んできた。
大きな振動が船全体を襲う。
ぶつかる一瞬前、手すりから手を離した自分のカラダは、あっけなく衝撃に吹っ飛ばされる。
「うわ───っ!!」
したたかに頭をどこかにぶつけてしまったらしい。
目が開けられない。
カラダも痛いが、どこが痛いのかわけがわからなくなっている。
周りでは悲鳴と叫びがこだましている。
やはり同じように人が重なっている気配はする。
「っつ・・・・・・・・・、たすけて・・・・・・」
耳をつんざくような爆発音。
炎と油の匂いに包まれる。
再び襲った揺り返しに、支える力のないカラダが転がっている感覚はあった。
そして、ふわりと宙にうく感覚。
閉じたままの目蓋の向こうは真っ赤に染まっていた。